爾後[語句情報] »
爾後
「爾後〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
爾後の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「宇宙の始まり」より 著者:アレニウススヴァンテ
よる。そういうわけで、結局星辰の力というものが過重視されるようになり、そのために
爾後約二〇世紀の間、現代の始まりまでも自然研究の衝動を麻痺させるという甚だ有害な....
「賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
面した。使者の趣を聞き終った秀吉は、「御家の重臣柴田殿をどうして疎略に考えよう。
爾後互に水魚の如くして、若君を守立て天下の政務を執りたいものである」と答えた。使....
「小田原陣」より 著者:菊池寛
壮語して主家を恥しめざるは、愛い奴かな」と云って命を助けて、お側衆にしてくれた。
爾後、板部を取ってただ岡江雪斎と云った。秀吉の寛大歎ずべしだ。柴田勝家の甥なる在....
「近時政論考」より 著者:陸羯南
空論と見做されて止みぬ。これ豈に気運のいまだ熟せざるがゆえにあらずや。しかれども
爾後一年を経ずして士論はこの急進論を奉じ、いわゆる民権論は政府に反対して勃興する....
「空襲警報」より 著者:海野十三
高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、
爾後の戦闘には、支障なき程度でございます」 「軍隊以外の死傷は」 「死者約七十名....
「「菊池寛全集」の序」より 著者:芥川竜之介
と云っても重大だね。」――善は実に彼にとっては、美よりも重大なものであった。彼の
爾後の作家生涯は、その善を探求すべき労作だったと称しても好い。この道徳的意識に根....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
措いて大宝二年には、持統天皇は万乗の尊い御身を以て、御遺骸を荼毘に附せられ給い、
爾後歴代の天皇大抵この式によって、御葬儀を挙行された事に見えている。臣僚庶民の間....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
辣を極めたものであったが為か、図らずも当時の学界に一大センセーションを捲き起し、
爾後数ヶ月間は甲論乙駁、盛んに雑誌の紙面を賑わしたものであった。しかしながら当時....
「エリザベスとエセックス」より 著者:片岡鉄兵
おれの力を思い知らせてやろう。セシルとその一党を追い出してやるのだ。そして女王は
爾後、行なって然るべきことと、おれが望むこと以外には、なにも行なってはならぬとい....
「フレップ・トリップ」より 著者:北原白秋
かしやの金と赤とがちるぞえな、 やはらかな秋の光にちるぞえな。 あの小唄は私の
爾後の歌謡体の機縁を開いた。永井荷風氏が褒め、新しい「白樺」の人たち、武者小路、....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
しばらくこれを百十二万四千人として、正徳の頃には約十四万五千人であった筈である。
爾後約百五十年、明治四年迄に全国民が一倍と一割八分強に達する間に、部落民は二倍と....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
を使用する必要はない。 実を言わば「穢多非人」の称は明治四年に廃せられたので、
爾後「エタ」なるものは全く存在しない筈である、したがって自分は、もし出来るならば....
「編輯雑感」より 著者:喜田貞吉
君、京都柳原の明石民造君、同野口の南梅吉君等、その他多くの有志の人々とも会見し、
爾後これらの人々と往来して、いよいよこの特別号の発行を決心するに至ったのである。....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
を忌まず、天皇の供御にも、明らかに猪鹿の肉を奉った事が「延喜式」に見えているが、
爾後百六七十年も経った大江匡房の頃には、猪鹿の肉を喰ったものは、三日間宮中へ上る....
「戦争史大観」より 著者:石原莞爾
闘力の靭強性を増加し、且つ側面の強度を増せるため自然、後者を有利とすること多し。
爾後、火器の発達により正面堅固の度を増すに従い、戦闘正面の拡大を来たし逐次、横隊....