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「病歿〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

病歿の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
家庭の幸福」より 著者:太宰治
ち転任になり、家族も共について歩いて、亡父が仙台の某中学校の校長になって三年目に病歿したので、津島は老母の里心を察し、亡父の遺産のほとんど全部を気前よく投じて、....
盲人独笑」より 著者:太宰治
手さぐりにて自記した日記は、それらの事情を、あますところ無く我らに教える。勾当、病歿せしは明治十五年、九月八日。年齢、七十一歳也。 以上は、私が人名辞典やら、....
新釈諸国噺」より 著者:太宰治
柄で怜悧な二十一歳の召使いと二人住んでいるだけで、金内の妻は、その六年前にすでに病歿していた。金内はその日努めて晴れやかな顔をして私宅へ帰り、父はまたすぐ旅に出....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
名声天下にあまねく、総、毛、武州の地を往来し、天文六年二月十九日、七十余歳にして病歿と記してあるようでしたが、そうなると百二十説も少々怪しくなりますが、何か因縁....
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
もあったが、文明十九年三月末に賜暇を得て越前の国へ下向し、間もなくその地において病歿した。この者は青侍《あおさぶらい》中特別の者であったからして年回には相当の合....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
一の慰めであったのかも知れない。この一行のある者は帰途に病み、大使継麿のごときは病歿している。また新羅との政治的関係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき....
ジャン・クリストフ」より 著者:豊島与志雄
れたが、その後、「魅せられたる魂」の大作をはじめ幾多の著作があり、一九四四年末に病歿した。....
三つの悲憤」より 著者:豊島与志雄
もありましたが、それも大した損害がなくて撃退されました。 阮東の両親は相次いで病歿しました。阮東は一家の主人となってから、同族中の中敏という娘を范志清にめあわ....
立札」より 著者:豊島与志雄
ましたけれど、なお相当な賑かさで、二日目の夜まで続きまして、幼明の母親が二年前に病歿して席にいない淋しさも、殆んど目立たないほどでありました。 食卓の料理の皿....
赤格子九郎右衛門」より 著者:国枝史郎
壌などを、詳かに探って復命したほどの、大貿易商であり武人である所の――島井宗室は病歿した。享年七十七であった。 遺命を受けた九郎右衛門が、宗室の次子を家督に据....
稚子法師」より 著者:国枝史郎
て追腹を切った程である。 で、私の物語ろうとする『稚子法師』の怪異譚は即ち蘇門病歿の時を以て、先ず其端を発するのである。 不時のご用を仰せ付かって、信州高島....
三筋町界隈」より 著者:斎藤茂吉
、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、既に病歿したものが幾人かいて、私の上京当時撮った写真にそのころの名残を辛うじてとどめ....
鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
南山役、得利寺役(大石橋、蓋平小戦)、遼陽戦なれども、此分を記すと云ひし軍医先年病歿、それ切になり居候。 拝啓。先人の小伝わざわざ御返し下され恐れ入候。台湾名物....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
楠山先生の世話で師の許を得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。 前島孝吉君は幼少の時から私宅へ参り、中年米国へ渡り、今日に至る....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
から歌集撰進の勅命が二条為藤に下った。翌元亨四年七月十七日、為藤は五十歳をもって病歿したので、更に為定に勅命が下った。為定は為藤の兄為道の子だが、早く養子にして....