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皇御
「皇御〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
皇御の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
、よく心得ているというか、おとなしい都民達だ。 宮益坂を電車はのぼる。「明治天
皇御野立所」と書いた神社跡が左にある。この奥の社殿は形もなし、こま狗だかお狐さん....
「空襲下の日本」より 著者:海野十三
た千島群島くらい、大局から見れば何でもない。戦闘員にも非戦闘員にも同じく、神武天
皇御東征当時からの崇高な大和魂が、今日もまだ宿っていたことがわかった。狼狽したり....
「大宇宙遠征隊」より 著者:海野十三
に、ジュラルミンの扉がはまっていた。その扉には、薄彫りの彫刻がしてあって、神武天
皇御東征の群像が彫りつけてあった。これは、今大宇宙を天がけりいく、われら日本民族....
「古事記」より 著者:太安万侶
になり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天
皇御年七十八歳、甲午《きのえうま》の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河....
「明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
場にて自由劇場第六回公演。狂言は「道成寺」「タンタヂールの死」。 ○七月、明治天
皇御不例に付き、各劇場は二十日頃より相前後して休場。....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
った。京都宮廷を中心にして、新古今時代のはなやかな歌壇が生れたのは、全く後鳥羽天
皇御譲位後、和歌所が設置されるにいたってからのことであった。だから上皇の御意志が....
「牛捨場馬捨場」より 著者:喜田貞吉
言うまでもなく我が国においても太古は牛馬の肉を食用としたものであった。神武天
皇御東征の時に、大和の土人|弟猾は生酒を以て皇軍を饗したと「日本書紀」にある。牛....
「炭焼長者譚」より 著者:喜田貞吉
器時代の貝塚などからもしばしば木炭が発見せられるが、それは多く和炭らしい。神武天
皇御東征の際に、大和の土人が墨坂に※し、熊笹を以て鳥の巣にも比すべき名ばかりの家....
「憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
他の民族にも甚だ多いのである。そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天
皇御東征の時に、大和の土人に猪祝・居勢祝などという土蜘蛛がいたとあるのもこれであ....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
本の公民の戸籍は初め大化の時に調べまして、その戸籍の基本となるべきものは、天智天
皇御代の庚午の歳の調査のもの、これを庚午年籍と云います。その庚午年籍が久しい間我....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
、または夷と称せしことは、ここに説明するまでもなし。「えみし」の語はすでに神武天
皇御製と称する歌詞の中に見え、東夷の称は景行天皇朝武内宿禰復命の文中に出づるなり....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦の兄|安日というもので、神武天
皇御東征以前の、大和の領主であったと云っております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
一人、御贄五十|舁、を献ず」 とあるのは、この間の消息を伝えたのである。欽明天
皇御宇のことである。 その後出雲氏は蘇我氏に出入し多くの寵を蒙ったが、蘇我氏亡....
「鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
お頼みになり、江戸へ出て国学を専攷して、世に許されるようになりましたので、明治天
皇御即位の時の制度などは、福羽氏の創意に基いたように聞きました。御所では両陛下の....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
て、アヅサノユミノと訓んだ。その方が口調がよいからである。なお参考歌には、天武天
皇御製に、「その山道を」(巻一・二五)がある。なお山部赤人の歌に、「朝猟に鹿猪履....