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相国寺
「相国寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
相国寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「門」より 著者:夏目漱石
ん》して宗助は坐禅《ざぜん》という記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に
相国寺《しょうこくじ》へ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶《うかつ》....
「大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
政宗等と片山道明寺附近で遭遇して激戦の末戦死した。之より前家康、本田正信の親族、
相国寺僧|揚西堂をつかわし基次に帰降を勧めた事がある。その時、基次「大阪方の運開....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
かに上手だ。 先ず陣の布き方を見ると、東軍は幕府を中心にして、正実坊、実相院、
相国寺、及び北小路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、山名宗全邸を....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
れぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛ることになった。尾州兵は智恩院。薩州兵は
相国寺。加州兵は南禅寺。 外国使臣一行の異様な行装を見ようとして遠近から集まっ....
「雪たたき」より 著者:幸田露伴
必死になって目ざして打取って辛くも悦んだのは安富之綱であった。又|打死はしたが、
相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦させ....
「鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
あちこち往来して、また藩主にも拝謁することを得た。そうしてこの度入るべき薩州邸は
相国寺に隣してかなり広い建物であった。 私は薩州邸の水本塾へ入ったが、同塾生は....
「雪の宿り」より 著者:神西清
の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚に列なるものが多々ございました。その中には
相国寺のあの桃源|瑞仙さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱の学問とや....
「興津弥五右衛門の遺書」より 著者:森鴎外
人々は烏丸大納言資慶卿、裏松宰相資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、
相国寺、建仁寺、東福寺|並びに南都興福寺の長老達に候。 明日切腹候場所は、古橋....
「漱石氏と私」より 著者:高浜虚子
びに行きましたか。」と私は尋ねた。 「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で
相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行った位のものです。」と氏は答えた。 「お寺ばか....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
かと。
そう、自分に訊ねて、ぴたと自己の足を大地に踏み止めてみた時、道はすでに
相国寺の大路端れに出ていて、半町ほど先には、ひろい川面の水が銀鱗を立てて、水に近....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
かれぞと、覚悟のていに伺いました」 「では、むずかしいのか」 秀忠は、幼い頃、
相国寺の陣中で、父の家康のそばに坐って謁見した、石舟斎|宗厳のすがたと、自分の幼....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
で、虚空に答えもないのだった。 × × 一条ノ末、
相国寺裏の裏町。 どこ一軒、起きている灯もみえない真夜半を、三、四人の童が、 ....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
していた。『大乗院寺社雑事記』文明三年正月十八日の条に、『成恩寺殿御記』を引いて
相国寺大塔供養応永六年九月十五日の式のことを書いた中に、 左大臣内大臣以下 一人....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
際し、禁裏に参上したものであった。また「蔭涼軒日録」長禄二年十一月二十二日条に、
相国寺領北畠・柳原の散所の事が見えている。この北畠の散所は「言継卿記」の北畠の声....