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知多
「知多〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
知多の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「おじいさんのランプ」より 著者:新美南吉
水浴のこと)に名古屋から来る客は、たいてい汽車で半田《はんだ》まで来て、半田から
知多《ちた》半島西海岸の大野や新舞子まで人力車でゆられていったもので、岩滑新田は....
「嘘」より 著者:新美南吉
も知っている。 見にいこうということに、一ぺんで話がきまった。新舞子といえば、
知多半島のあちら側の海岸なので、峠《とうげ》をひとつ越していく道はかなり遠い。十....
「行人」より 著者:夏目漱石
》に苦しみ抜いている兄さんにはなおさら痛切に解っているでしょう。兄さんは「全く多
知多解《たちたげ》が煩《わずらい》をなしたのだ」ととくに注意したくらいです。
....
「自叙伝」より 著者:大杉栄
。 先生は観海流の何とかいう有名なお爺さんで、若い時には伊勢から向う岸の尾張の
知多半島まで、よく泳いでは味噌を買いに行ったという話のある人だった。学校にはこの....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
で方角がなっていない。その指している方向は三河蒲郡《みかわがまごおり》か、或いは
知多半島の方面であろうところの空際を指して、道庵は突然、「肥後の熊本が見える」と....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし
知多の浦に朝|榜ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江に鶴鳴きわたる志....
「海水浴」より 著者:寺田寅彦
明治十四年の夏、当時名古屋鎮台につとめていた父に連れられて
知多郡の海岸の大野とかいうところへ「塩湯治」に行った。そのとき数え年の四歳であっ....
「十二神貝十郎手柄話」より 著者:国枝史郎
かっていた。 媾曳をしている二人の者へも、月光は降りそそいでいた。ここは尾張領
知多の郡、大野の宿の潮湯治場(今日のいわゆる海水浴場)で、夜ではあったが賑わって....
「剣侠」より 著者:国枝史郎
あります逸見三家……」 「おおなるほど逸見三家!」 名古屋に一軒、犬山に一軒、
知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣る大大尽があり、総称して尾張....
「古事記」より 著者:太安万侶
本の臣・壹比韋《いちひい》の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀《たき》の臣・羽栗の臣・
知多の臣・牟耶《むざ》の臣・都怒《つの》山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡....
「手仕事の日本」より 著者:柳宗悦
物として名を広めました。しかしいつも絵に生気が乏しいのを残念に思います。その他|
知多半島に常滑があります。ごく薄く釉薬をかけた赤褐けた焼物であります。急須だとか....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
臣、それに草心尼と覚一の母子までをつれて、ここへ着いた。 いや、そのほか、三州
知多の吉良、仁木、斯波、一色、今川など、足利支流の族党たちの家々からも、名代、あ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
とになってからだが、北畠顕信と結城宗広が陪乗していた義良親王のお船は、あくる日、
知多半島沖の篠島にただよい着いた。 またべつの船にいた北畠親房は、遠く、東国の....
「こども風土記」より 著者:柳田国男
間ではただ形だけを残し、その面白さの方は子どものみが相続しているのである。尾張の
知多半島などでこの遊びをネギゴトといい、それに使う木の棒をネギというのも、同じ念....
「日本の伝説」より 著者:柳田国男
愛知県 丹羽郡池野村…………………………………………………………………尾張小富士
知多郡東浦村生路……………………………………………………………弓の清水 南設楽郡....