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「硯友社〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

硯友社の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
鶴は病みき」より 著者:岡本かの子
無かろうと、推移そのものに立派な理由があるのですから仕方が無いですな。たとえば、硯友社に反抗して起った自然主義が、いくら平面的文学であり、その後に起った耽美派文....
紀行文家の群れ」より 著者:小島烏水
国木田独歩、岩野泡鳴ら同主義の作家と呼応して、自然主義を文壇思潮の主流たらしめ、硯友社その他の既成老衰作家などを、ひとたまりもなく押し流してしまった。一方『文章....
大衆文芸作法」より 著者:直木三十五
》と云うような人達が通俗小説を相変らず発表しているのであるが、之等の人は、謂わば硯友社派の残存者達であり、文壇小説家としては落伍した連中であって、残念ながら新ら....
二十五年間の文人の社会的地位の進歩」より 著者:内田魯庵
く生れたばかりで、徳富蘇峰氏が志賀、三宅両氏と共に並称せられた青年文人であった。硯友社は未だ高等学校内の少年の団体であって世間に顔出ししてなかった。依然として国....
江戸か東京か」より 著者:淡島寒月
これはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友社の紅葉さんなんかと友人で、硯友社連中の文士芝居に、ドロドロの火薬係をやった....
薄紅梅」より 著者:泉鏡花
い。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊と称えられた硯友社、その星座の各員が陣を構え、塞頭高らかに、我楽多文庫の旗を飜した、編輯所が....
明治十年前後」より 著者:淡島寒月
ろいろあったが、出たものには山田美妙斎が編輯していた『都の花』があった。その他|硯友社一派の『文庫』が出ていた。 劇評では六二連の富田砂燕という人がいた。この....
明治の戦争文学」より 著者:黒島伝治
この派をして、社会的現実としての戦争から眼を蔽わしめたのである。 以上のほか、硯友社派、及び自然主義派の作家で、全然戦争のことには手を触れなかった若干がある。....
二葉亭余談」より 著者:内田魯庵
得なかった。 その頃私が往来していた文壇の人はいくばくもなかった。紅葉美妙以下硯友社諸氏の文品才藻には深く推服していたが、元来私の志していたのは経済であって、....
二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
る振わなかったが若い男の中には顔が売れていた。当時のチャキチャキの新らしい男たる硯友社の中にもこの女と親しいものがあったはずである。その上にこの女は弟と二人ぎり....
明治の文学の開拓者」より 著者:内田魯庵
アレほどに評判されなかったろう。 尾崎、山田、石橋の三氏が中心となって組織した硯友社も無論「文学士春の屋おぼろ」の名声に動かされて勃興したので、坪内君がなかっ....
葛飾土産」より 著者:永井荷風
いたように考えている。入谷《いりや》の朝顔と団子坂《だんござか》の菊人形の衰微は硯友社《けんゆうしゃ》文学とこれまたその運命を同じくしている。向島の百花園に紫※....
十日の菊」より 著者:永井荷風
の託だかわからない言葉を使わなくっちゃ新しく聞えないからね。」 唖々子はかつて硯友社《けんゆうしゃ》諸家の文章の疵累《しるい》を指※したように、当世人の好んで....
早稲田神楽坂」より 著者:加能作次郎
屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外|硯友社一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通って....
芝、麻布」より 著者:小山内薫
論、その頃の文壇には党派があった。早稲田派がある。赤門派がある。文学界派がある。硯友社派がある。だが、竜土会はすべての党派を抱擁していた。誰が主将というのでもな....