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禁裏
「禁裏〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
禁裏の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「政談月の鏡」より 著者:三遊亭円朝
有難う存じます、おゝお梅、行って来たか」 梅「あゝ行って来たよ」 喜「今な、
禁裏さまや公方様が喰《くら》って、丁寧な事《こた》ア云えねえが、御三家御三卿が喰....
「玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
ものであったらしい。ことにこの戊辰《つちのえたつ》の久安《きゅうあん》四年には、
禁裏に火の災《わざわ》いがあった。談山《たんざん》の鎌足公《かまたりこう》の木像....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
てでもいるかと思うと案外にのっぺりとなまっちろくて、物にたとえていったならば、ご
禁裏仕えの高貴なお公卿《くげ》さまを小さく縮める器械へかけて一回り小造りに造り直....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
を締め上げようとするてえと、こいつが偉い啖呵《たんか》をきりゃがったんですよ。ご
禁裏さまから位をいただいた鈴原|※校《けんぎょう》じゃ。不浄役人ふぜいに調べをう....
「菊模様皿山奇談」より 著者:三遊亭円朝
天が下の霊物で、万物の長だ、是れより尊いものは無い、有情物の主宰だてえから、先ず
禁裏さまが出来ても、お政治をなさる公方様が出来ても、此の美作一国の御領主さまが出....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
安兵衛はまたそれを聞書にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆は「
禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
「それは雲上《うんじょう》のこと、公卿《くげ》の家じゃ」 「まあ、あのお公卿様、
禁裏《きんり》様にお附きあそばすお公卿様が、奥方様のお里方なのでござりまするか」....
「艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
勧修寺大納言経広は心ざまが真直で、誰に遠慮もなく物の言える人だった。 時の
禁裏後西院天皇は茶の湯がお好きで、茶人に共通の道具癖から井戸という茶碗の名器を手....
「鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
のでその手当をした。数日間は随分熱も高く出て苦しかった。そこで或る京家の人からは
禁裏の膳のお下りだから、これを頂くと落ちるといって、少しばかりの御膳を貰ってたべ....
「南国太平記」より 著者:直木三十五
の方へ吹き出しながら
「それで――」
「その夜――いろいろと、思案仕りましたが、
禁裏の御気配、京都へ集まっております浪人共の正論、引続く不作、窮民の増加、異国船....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
嫌がる仕事の方へ向けられる事に変りました。しかもなお天部の小法師と称するものは、
禁裏御所のお庭掃除のお役をつとめておりました。この小法師は後には蓮台野部落や、大....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
のエタは、徳川時代の始めには下村勝助統率の下に、二条城の掃除が公役であった。また
禁裏のお掃除をする小法師というものも、また京都付近のエタであった。「雍州府志」に....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
犬神人の間には徳川時代になっても、なおその遺風が多少存して、正月元日の早朝には、
禁裏御所の日華門前において、毘沙門経を読誦する例であった。毘沙門天は七福神の一つ....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
」とある。 山科言継卿の日記によれば、正月十八日の三毬杖の時に限り、必ず唱門師
禁裏に参上して之を囃す例であった。 千秋万歳と称して、正月の四日五日に禁廷に罷....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
所に近かったからその声聞師を御近所の声聞師と呼び、毎年正月十八日の三毬打に際し、
禁裏に参上したものであった。また「蔭涼軒日録」長禄二年十一月二十二日条に、相国寺....