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「篤志〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

篤志の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
青春の逆説」より 著者:織田作之助
す」 「そりゃ惜しいね」と校長は言い、「実は……」と説明したのはこうだった。ある篤志家があって、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。無論、条件がある....
悪獣篇」より 著者:泉鏡花
かよ。」 「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発願した篤志の方はまた別にあるといの。 聞かっしゃれ。 その奥様は、世にも珍らしい、....
若草物語」より 著者:オルコットルイーザ・メイ
作を出しました。 千八百六十一年、女史の三十歳のときに、南北戦争が起り、女史は篤志看護婦となって献身的なはたらきをしました。その後、三十七歳に「若草物語」つづ....
幸福のうわおいぐつ」より 著者:アンデルセンハンス・クリスチャン
。たとえば買い立ての帽子が夕立にあうところを助けてやったり、ある正直な男に無名の篤志家からほどこし物をもらってやったり、まあそんなことでした。しかし、そのあとで....
新しき世界の為めの新しき芸術」より 著者:大杉栄
ってくれた親の田舎臭いのを恥じる、成上り者共の多い文壇の事である。五人や十人の、篤志なしかし無邪気な、或は新しもの好きの、或は又物知りぶりや見え坊の先生等が、其....
子をつれて」より 著者:葛西善蔵
し始めたのであった。「小田のようなのは、つまり悪疾患者見たいなもので、それもある篤志な医師などに取っては多少の興味ある活物であるかも知れないが、吾々健全な一般人....
式部小路」より 著者:泉鏡花
ると、宿直と、看護婦長は、この室を辞して出た。その時、後を閉めようとして、ここに篤志の夜伽のあるのを知って一揖した。 丹平すなわち、外から扉を押そうとすると、....
鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
ていたら必ず新生面を拓く種々の胸算があったろうと思う。正倉院の門戸を解放して民間篤志家の拝観を許されるようになったのもまた鴎外の尽力であった。この貴重な秘庫を民....
欧米各国 政教日記」より 著者:井上円了
、人の涼を戸外に迎え、街上の往来極めて雑踏なるの際に当たり、寺院の僧侶は俗人中の篤志なるものに許して、街上説教をなさしむることあり。 英国なるヤソ教諸宗派中の....
特殊部落と寺院」より 著者:喜田貞吉
叫された程であったから、僧侶が自らこれに手を着けて、仏縁を結ばしめようとする様な篤志のものは少かったものとみえる。否むしろこれらの徒に近づくのを以て、仏の戒律に....
遠州地方の足洗」より 著者:喜田貞吉
たく、かねて調査の機会を求めていながら、未だ着手に及ばなかった折柄、同地方の或る篤志家から、最も有益なる、かつ最も愉快なる左の如き完全融和の事実の通信を得た。 ....
編輯雑感」より 著者:喜田貞吉
態にあるのに不審を感じ、研究してみたいという念を起すに至った。それから数回天部の篤志家竹中半左衛門翁を訪問して、所蔵の古文書を見せてもらい、また同翁経営の夜学校....
特殊部落ということについて」より 著者:喜田貞吉
究をもこれに合せて、早晩前者の姉妹篇とも云うべき一つの増大号を発行し、以てこれら篤志家各位の好意に酬いんことを予期して、しばらくこの方面に関する論説記事の掲載を....
融和促進」より 著者:喜田貞吉
ったと記憶しますが、私が始めて京都大学の講師として赴任した年のこと、同地の天部の篤志家故竹中庄右衛門翁の家庭を訪うて、その所蔵の古文書を見せてもらい、そのついで....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
て来たものらしく、その数正月二月の二ヶ月間に、八万二千に達したといいます。これは篤志のある坊さんが、右の二ヶ月の間に、死者を見る毎にそれに回向して、一つずつ小さ....