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「続日本紀〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

続日本紀の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
古代国語の音韻に就いて」より 著者:橋本進吉
集』においては大体書き分けてはあるが、しかし幾分か厳重でない所がある。ところが『続日本紀《しょくにほんぎ》』以下はそれが書き分けてない。かように言っておられるの....
神社合祀に関する意見」より 著者:南方熊楠
りしに、その社の隅にありし黒煤《くろすす》けたる箱の書付から気がつき、この地は『続日本紀』に見えたる通り、聖武天皇が紀伊国岡の宮に駐《とど》まりたまいしという御....
般若心経講義」より 著者:高神覚昇
ことなく、口に閑かに、般若波羅蜜多を念誦すべし」 というのであります。これは『続日本紀』の第二十一巻に出ておる詔勅ですが、要するに、勅語の御趣旨は、上は、天皇....
Liber Studiorum」より 著者:寺田寅彦
リレーはその二人の途中に立って悩んでいたのであろう。 この夢を見た夜は寝しなに続日本紀を読んだ。そうして橘奈良麻呂らの事件にひどく神経を刺激された、そのせいも....
十二支考」より 著者:南方熊楠
らしむとあって、その詔の発端には風雨順序し五穀豊穣なるべきため祷った由見える(『続日本紀』十四)。しかるに当時最勝|会《え》を宮中法事の第一とし、天平九年冬十月....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
ける芽子かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、続日本紀に拠るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野....
文学に現れたる東北地方の地方色」より 著者:佐左木俊郎
地のように思っていたようであります。黄金産出のことを記録してある最も古いものは『続日本紀』であろうと思いますが、それによりますと、聖武天皇の天平二十一年の二月、....
火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
続日本紀に、文武天皇四年飛鳥元興寺の僧道照和尚遷化してその屍を焼いたのが、我が国....
国号の由来」より 著者:喜田貞吉
、この賀平使の後に国号を改めて日本と称したとあるのである。ここにおいてさらに我が続日本紀を按ずるに、文武天皇大宝二年五月、遣唐持節使|粟田真人唐に入る。真人初め....
道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
大成されずに中止されてしまったのであった。けだし当時田口博士は道鏡の素性に関する続日本紀の文に、河内の弓削氏の人であるという事、彼の先祖に大臣があったという事な....
間人考」より 著者:喜田貞吉
閉とあるも同じ)氏の一族が、さらに分れて間人姓を有するに至ったものであろう。また続日本紀大宝二年正月条には、正六位上|丹比間人宿禰に従五位下を授くとあって、別に....
法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
、「和銅年間造立に係る寺の縁起に曰く」と解すべきものであるとの事、その他日本紀・続日本紀等に、法隆寺程の大寺の造営について、天智天皇九年以後何ら記するところなく....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
二月に至って、一般に雑戸は解放せられて、平民すなわち良民と同等の身分になった。「続日本紀」に、 。 とある。これは明治四年に穢多非人の称を廃したのと同じような美....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
僧を法師と呼んでいたことには疑いない。しかしそれは先方に敬意を表した語らしい。『続日本紀』には、大僧正行基や、元興寺の道昭には和尚と用い、僧正義淵には法師とある....