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「義塾〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

義塾の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
誰も知らぬ」より 著者:太宰治
らに居られるようでございます。もう、二十年ちかくも逢いません。旦那さまは、三田の義塾を出た綺麗《きれい》なおかたでして、いま朝鮮の京城で、なんとかいう可成り大き....
近時政論考」より 著者:陸羯南
備したる民権論派の萌芽は生じたり。この論派は最新洋学者の代表するところにして慶応義塾等において英米の政治書を読みたる者は多くこの論派に帰す。ここにおいて民権論派....
千曲川のスケッチ」より 著者:島崎藤村
であった。私は信州の百姓の中へ行って種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方....
みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
が着類を質入れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇を信じて外川先生の門人となるに及ん....
死までを語る」より 著者:直木三十五
である。 「そして、五枚位に書いてもらいたいんだが」 私は、すぐ鎌田氏を、慶応義塾に訪うた。 「明日午後一時に来なさい」 というのである。その日に行くと、氏....
社会時評」より 著者:戸坂潤
て日本の教育は日増しに精神手工業的な村塾道場主義に傾いて行くのである。三田の慶応義塾など、蘭学塾か英学塾かに止まっていれば、今頃は大したものになっただろうに、大....
鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶....
子を奪う」より 著者:豊島与志雄
た。然し敏子らしい姿は一度も見かけなかった。そして疲憊しつくした彼の眼には、慶応義塾の美しい図書館の姿が、暮れ悩んだ空を景色にして、くっきりと残ったのみであった....
一商人として 」より 著者:相馬愛蔵
年のころ学んだ小学校が「研成学校」であり、青年時代に同志と共に創立したのが「研成義塾」であって、私と研成という名には離れられない因縁があるらしい。そこでこの研成....
嘘の効用」より 著者:末弘厳太郎
にその研究の中途においてたまたま生まれた一つの小副産物にすぎない。これはもと慶応義塾大学において講演した際の原稿に多少の筆を加えて出来上ったものであって、雑誌『....
地上」より 著者:島田清次郎
が嫌だったが、まずい食物を不平に思ったことはなかった。学校は八時に始まった。慶応義塾へ出ている乙彦は彼が飯を食っている時分にもう出て行く。平一郎は乙彦のお古にM....
瘠我慢の説」より 著者:木村芥舟
れば、先生|大に喜び、やがて自から麺粉惜し、厚く後事を恤まれたりという。 慶応義塾はこの頃、弟子いよいよ進み、その数すでに数百に達し、また旧日の比にあらず。或....
福沢諭吉」より 著者:高山毅
ざめさせるのは、学問しかないと、 けわしい教育者の道をえらびました。 いま、慶応義塾大学の図書館には、 「ペンは剣よりも強し。」 のことばが、ラテン語で書かれて....
芝、麻布」より 著者:小山内薫
思い出される。 その芝というところと私が関係を持つようになったのは、三田の慶応義塾へ通うようになってからであった。 私が下町の放浪生活をやっている時代であっ....
雷門以北」より 著者:久保田万太郎
たくだりに書いてある。明治四十三年といえばいまから十七年まえである。わたしの慶応義塾予科二年のときである。が、それにしてもその株の売買価の三百円は相場でなさすぎ....