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「聖徳太子〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

聖徳太子の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
修禅寺物語」より 著者:岡本綺堂
に及ばねど、わが日本|開闢以来、はじめて舞楽のおもてを刻まれたは、もったいなくも聖徳太子、つづいて藤原淡海公、弘法大師、倉部の春日、この人々より伝えて今に至る、....
神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
つもなかった。 どれもこれも駄目であった。 満足することは出来なかった。 「聖徳太子様、淡海公、弘法大師様の作られたような『神作』のようなものは出来ないもの....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
いたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手纏かむ」の句にあったのである。聖徳太子の歌に、「家にあらば妹が手|纏かむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ」(巻三・....
夢殿」より 著者:楠山正雄
たというので、皇子のお名を厩戸皇子と申し上げました。後に皇太子にお立ちになって、聖徳太子と申し上げるのはこの皇子のことでございます。 二 さて太子は....
飛騨の顔」より 著者:坂口安吾
流の皇子は故郷たるヒダへ逃げこんで戦って亡されました。それが大友皇子にも当るし、聖徳太子か、太子の嫡男たる山代王にも当るし、日本武尊にも当る方で、神話中の人物に....
夢は呼び交す」より 著者:蒲原有明
の集なら借覧を許されていた。その集の中に、ふだんは余り注意しない文章であるが、『聖徳太子|頌徳文』というのがある。「皇国啓発の先覚、技芸外護の恩師」と冒頭に書き....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
測にとどまるにしても、仏教の渡来以後は急速に文字が普及したことは確実だ。とりわけ聖徳太子が現れるや、隋へ大使や学問僧を送って文物をとりよせ、憲法をつくり、十二階....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
かも知れない。 コマ(コクリをさす。以下も同じ)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。....
起ち上る大阪」より 著者:織田作之助
られている一巻の古い軸には、この地蔵さんが模写されていて、「宝亀五年三月二十四日聖徳太子御直作」と肩書があり、裾書に「鈴木町」とある。鈴木町というのは十年ばかり....
日本上古の硬外交」より 著者:国枝史郎
様の御宇十五年に、隋と交通し、はじめてわが国から遣隋使として小野妹子をつかわし、聖徳太子様御自らお認めあそばされた国書を隋の煬帝に遣わされたが、その堂々たる大文....
画道と女性」より 著者:上村松園
までには戻って来るはずになっている二曲片双の屏風を思い浮かべました。それは、先年聖徳太子奉讃展覧会に出陳した、「娘」と題する徳川中期頃の町娘二人を描いたものでし....
画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
十二回出品「天人」 同 十一年 「楊貴妃」帝展第四回出品 同 十五年 「娘」聖徳太子奉賛展出品「待月」帝展第七回出品 昭和 三年 「草紙洗」御大典記念御用....
妖怪学」より 著者:井上円了
。 神武天皇 一白 釈迦如来 五黄 応神天皇 九紫 仁徳天皇 三碧聖徳太子 六白 弘法大師 二黒 菅原道真 三碧 円光大師 八白 親....
法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
った日本紀の記事に対して、鋭利なるメスを振るわれたのであった。同君は群書類従所収聖徳太子伝補闕記の記事によって、日本紀の天智天皇九年庚午四月卅日夜半の法隆寺火災....
仏教人生読本」より 著者:岡本かの子
ら早く人格完成を遂げて覚者になることは諸仏諸祖を救けることにもなるのであります。聖徳太子さまを仏教徒が尊崇し奉るのは、太子さまが、高貴の御身分の方であらせられた....