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聖武天皇
「聖武天皇〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
聖武天皇の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「三四郎」より 著者:夏目漱石
んのう》の御代《みよ》でもさしつかえない気がする。応神天皇《おうじんてんのう》や
聖武天皇《しょうむてんのう》ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ち....
「茶の本」より 著者:岡倉覚三
を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年|
聖武天皇|奈良の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
よ清けくなりにけるかも」(巻三・三一六)というのがある。これは吉野宮行幸の時で、
聖武天皇の神亀元年だとせば、「わが命も」の歌よりも以前で、未だ太宰府に行かなかっ....
「嫉みの話」より 著者:折口信夫
出られるときには、いろいろと議論が起こった。水の系統の光明皇后が出られたときは、
聖武天皇が宣命の中で、わけを説いておられる。だいたい、皇族から出られるのが第一位....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
ょう。敵の霊泉をほめたたえた計略がだんだん図に当ってきたのでしょうかナ。 次の
聖武天皇の時代には、ミノの不破頓宮で新羅楽とヒダ楽をやらせたという。この不破頓宮....
「文学に現れたる東北地方の地方色」より 著者:佐左木俊郎
を記録してある最も古いものは『続日本紀』であろうと思いますが、それによりますと、
聖武天皇の天平二十一年の二月、百済の王敬福という者が、今の、宮城県遠田郡涌谷村字....
「美の日本的源泉」より 著者:高村光太郎
の雄大の気を示顕する。 今は原作を見るよしもないが、天平盛期にあたっていしくも
聖武天皇は国家の総力をあげて東大寺に五丈余尺の金銅|毘盧舎那仏を建立あらせられた....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
には箭は立つとも背は箭は立たじと云ひて、君を一つ心をもちて護り奉る」ものとして、
聖武天皇の御信頼を得し勇士なりき。古え佐伯部の兵士の禁闕を護るや、彼らは久米部の....
「東洋文化史における仏教の地位」より 著者:高楠順次郎
答えたのではないかと思われる。二人は失望して南楊州あたりに戻って来た、この地方で
聖武天皇から派遣された留学僧理鏡に会って「五台に文殊を尋ねたが日本に行って留守だ....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
あります。 さればこの東人の忠勇は、決して昔の佐伯部に劣らぬものでありました。
聖武天皇は東人を以て中衛府を組織されました、宮中を衛るの義で、後の近衛府の起原を....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
うものがありました。これはもと良民とは少し階級が違っておりましたが、奈良朝の頃に
聖武天皇の詔によって、その地位を高めて平民となりました。したがって少くも平安朝の....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
農民以外の雑業に従事する雑戸の民で、もとは公民の戸籍以外に置かれていたが、少くも
聖武天皇の御代に、雑戸を解放して平民に同じくすと定められて以来は、推しも推されも....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
は遠州刺史、すなわち遠江守貫名重実の次子重忠までは前者と同一だが、さらにその先は
聖武天皇の裔で、母は清原氏だと余程古いところまで及んでいる。しかるに貞享二年の「....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
に至っては、放生を以て大なる功徳の行為となし、捕えたり飼ったりした生き物を放つ。
聖武天皇の御代には、豚までも山に放たしめた事があった。 肉食を忌む思想の由来は....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
天皇の朝に犬養宿禰真老という人が、自度の沙弥の乞食を撃って悪死の報いを得たとか、
聖武天皇の御代に長屋王が、賤形の沙弥の頭を打って悪死の報いを得たとか、備中少田郡....