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至論
「至論〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
至論の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「思想と風俗」より 著者:戸坂潤
るものが、インチキ宗教一般の本質だ。――そういう意味に於いて、唯物論的認識論(乃
至論理学)から云うと、インチキでない宗教は元来なかったし、又決してあり得ないとい....
「読書法」より 著者:戸坂潤
ベルグソンなどの形而上学と呼びたいものに他ならぬ。 思想の科学は常に認識理論乃
至論理学であった。勿論新カント派の意味する認識論や論理学、又学校論理学の類に局限....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
公文潜の『明道雑志』にいわく、鶏|能《よ》く晨を司る事経伝に見《あら》われて以て
至論と為す、しかれどもいまだ必ずしも然らざるなり。あるいは天寒く鶏|懶《ものう》....
「科学論」より 著者:戸坂潤
だがそれは、哲学を方法として日常使っていない人間の言葉であるばかりでなく、方法乃
至論理なるものが実に世界観の醸成される時なのである。 さて学問乃至科学の科学性....
「イデオロギーの論理学」より 著者:戸坂潤
。 性格的論理に於ける――没性格的論理は今の問題ではない――論理形態は、真理乃
至論理の理念からは決定出来なかった。そうかと云って単なる個々の真理内容からも決定....
「イデオロギー概論」より 著者:戸坂潤
学、に関する心理学的考察と関係を有つに過ぎないかのように考えられる。もし論理学乃
至論理と呼ばれるものが、かの形式論理――学校論理――の外へ出ないものならば、なる....
「現代哲学講話」より 著者:戸坂潤
ても、その通りだったのである。 さてこうして自然科学に於ける範疇体系が哲学的乃
至論理学的範疇体系と共軛的であるとして、同じ関係が、而もより明らかに、社会科学と....
「現代唯物論講話」より 著者:戸坂潤
この存在は全く論理学上の概念だと云ってもいいのである。
処がヘーゲルの論理学乃
至論理は、云わば純論理的論理又は論理の論理でしかなく、論理と論理が実はそれを追跡....
「認識論とは何か」より 著者:戸坂潤
同じ言葉で云い表わされる。之は単に言葉の区別が足りないのではなくて、却って論理乃
至論理学(ロジック)の本性を告げる意義の深い現象なのだが、それは後に触れよう。だ....
「思想としての文学」より 著者:戸坂潤
種の特殊科学となる、と考えるべきだろう。一切の科学のこの要点的要約は正当に論理乃
至論理学と呼ばれているもので(尤も学校で教える論理学のことではない)、ここで初め....
「辞典」より 著者:戸坂潤
とが出来よう。第一に最初に来るものは世界観、第二に存在論、第三に最後の認識論(乃
至論理学)。そこでこの三段階に相応して、唯物論は夫々、現実主義・唯物論・実在論と....
「科学と科学の観念」より 著者:戸坂潤
、極端に云えば、大方の科学者や科学論者や科学主義者に、判っていない。 理論的乃
至論理的なことをそれだけで科学的だと考えている人もいる。然らばスコラ学は最も科学....
「哲学の現代的意義」より 著者:戸坂潤
就いては森山啓氏等の努力を多とすべきであったが、併し科学に於ける世界観と方法(乃
至論理)との連関に於ては殆んど全く興味の焦点が理解されていなかった。こうした認識....
「認識論としての文芸学」より 著者:戸坂潤
たということにはならぬ。元来認識論とは認識の歴史の論理的洗練のことだ。一体論理乃
至論理学というものが歴史の結論以外の何ものでもない。価値の観点は歴史の事実が原則....