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興福寺
「興福寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
興福寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「竜」より 著者:芥川竜之介
鼻蔵と、謡《うた》われるようになったのでございます。現に私も一両度、その頃奈良の
興福寺《こうふくじ》の寺内で見かけた事がございますが、いかさま鼻蔵とでも譏《そし....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
深刻なものだったらしい。 兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、
興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を講じて居たので、流寓の公卿を養う事....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
かということでした。 「ええええ、鎌宝蔵院《かまほうぞういん》の槍の道場も、この
興福寺の寺中に跡だけは残っているのでござりまする。春日様へ御参詣をなすって、二月....
「艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
、南瓜は秋から冬を通じて、客間の装飾としても用いられるようになった。 私は奈良
興福寺にある名高い木彫の天灯鬼が、左肩に載せた灯を左手で支えて、ぐっと身体をひね....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震は大和が最も強く、奈良の東大寺、
興福寺、薬師寺、法花寺、西大寺の諸寺に被害があった。同七年八月には、伊勢、遠江、....
「ドナウ源流行」より 著者:斎藤茂吉
に難儀した時、僕はたまたま「霊仙大徳の死」を思って自ら慰めたのであった。霊仙は、
興福寺の僧で、延暦二十二三年ごろ最澄、空海と共に入唐した。或はもっと早く宝亀年中....
「雪の宿り」より 著者:神西清
水気の多い牡丹雪に変って、午をまわる頃には奈良の町を、ふかぶかとうずめつくした。
興福寺の七堂伽藍も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
構なものが滅茶々々にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚かった中に、あの
興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかったというような....
「美の日本的源泉」より 著者:高村光太郎
な頭脳と余裕ある手腕とによる悠揚せまらぬ写実の妙諦に徹底している。 又一方には
興福寺の十大弟子や八部衆のような近親感の強い純写生に基く諸作もあり、写生の極まる....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
とであります。祥雲氏は精密なものが特に得意であったが、或る大阪の商人から頼まれ、
興福寺の宝物の華原磬(鋳物で四|疋の竜が絡んだもの)というものを黄楊で縮写したの....
「東洋文化史における仏教の地位」より 著者:高楠順次郎
とごとく整備したともいうべき吉備真備が乗っている、留学の帰路である。それと同時に
興福寺から送られた留学生の中で一番偉い人である玄※法師。まだ他にもたくさんおりま....
「人身御供と人柱」より 著者:喜田貞吉
の柱の下から黄金造りの刀剣二口、鏡鑑、珠玉、その他種々の貴重な物品が発見された。
興福寺の須弥壇からも珠玉その他種々の物が出た。これらはいずれも地鎮に際して、地の....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
立ち、念仏を申して報謝の手の内に生きるのである。この鉦打は鉢叩きの徒と同じく、「
興福寺大乗院寺社雑事記」には、七道の者と称する中に収め、唱門師たる非人頭支配の下....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に相違ない。それについて思い合わされることは、東寺の散所法師や、高野山の谷の者、
興福寺の五箇所・十座の唱門等の使役である。東寺の散所法師が、諸国に算所あるいは産....
「融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
とに戦国時代の如き乱世には、力量次第でいかようともなったのであります。かの奈良の
興福寺大乗院の尋尊僧正の述懐に、「近日は土民侍が階級を見ざるの時なり、非人三党の....