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花山院
「花山院〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
花山院の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「紫大納言」より 著者:坂口安吾
昔、
花山院の御時、紫の大納言という人があった。贅肉がたまたま人の姿をかりたように、よ....
「雪の宿り」より 著者:神西清
なく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近衛殿より鷹司殿、浄華院、日野殿、東は
花山院殿、広橋殿、西園寺殿、転法輪、三条殿をはじめ、公家のお屋敷三十七、武家には....
「奥の海」より 著者:久生十蘭
ぼろな音声で、 「夢といっても、たのしいような夢ではありえない。さる年の飢饉に、
花山院の門跡は、どうせ死ぬものならと、経文を臼に搗き、糊にして食ろうて腹をふくら....
「法然行伝」より 著者:中里介山
の二月十三日に生年七十一で出家を遂げたがその月八日臨終正念の往生をとげたという。
花山院左大臣(兼雅)は最初から深く法然に帰依し、鎮西の庄園の土貢を割いて毎年法然....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
新葉集』の撰者、吉野朝の柱石であられるが、それに親近して吉野朝の右大臣まで昇った
花山院長親の『耕雲口伝』に次の一文がある、 肝要はたゞ数寄の志一つなり。京極中納....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
納言の子烏丸参議光広のしのび名。いつものお連れというのは、おおかた徳大寺|実久、
花山院忠長、大炊御門頼国、飛鳥井雅賢などというようなところの顔ぶれであろう。
....
「鳴門秘帖」より 著者:吉川英治
貧乏で幕府からは好まれぬ公卿堂上へ多く嫁いでいる。重喜のすぐ先代をみても、一女は
花山院|大納言の正室に、また鷹司家、醍醐大納言、中院中将などとも浅からぬ姻戚の仲....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
のか」 「は。世上、つたえるだけでも、蔵人殿のほか、日野参議|資朝、四条|隆資、
花山院師賢、烏丸成輔など、いずれも気鋭な朝臣がたが、これも豪気なるお若き天子に、....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
みなもお待ちしていた」 「さあ、これへ」 さきに集まっていた面々は、日野資朝、
花山院、伊達、洞院の諸卿など、いずれも蔵人以上な官位の者だったが、ここでは席次も....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
座近くまで報じて来ていたのはいうまでもない。だが、この日も中殿につめ合っていた、
花山院師賢 万里小路宣房、藤房 北畠具行 烏丸ノ成輔 そのほか、千種忠顕....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
の一|札に、忠円の密書をも、併せて、 「これよりすぐ下山して、密かに禁中へ罷り、
花山院(大納言|師賢)か、万里小路(宣房)へこの二通を手わたし、時を措かず、奏聞....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
就護国院 へ入らせられたが、ここも手ぜまやら御不便となって、あくる日すぐまた、
花山院亭 へお移りになった。 いかに難に屈しない御性格のみかどであったことか....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
に騎を降りて、そして同じく、徒歩となって一人彼方へ行く義貞の背を見まもっていた。
花山院の仮皇居の前である。義貞は衛門まで進んで出陣の奏をよそながらお告げした。と....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
弥四郎がただ一騎去るのを見送ッてから、正成は扈従の一隊と三百騎ほどをつれて、
花山院の内裏へうかがった。 兵馬は宮門の外にのこして、正成ひとり、内へ通った。....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
徳子、摂政基実の妻となった盛子などのほか、家系的に、美人の多い家庭だったらしい。
花山院の兼雅へ嫁いだ一女なども“――コノ御台所ハ御眉目モ美シウ情モ深クオハシケル....