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「若狭〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

若狭の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
藪の中」より 著者:芥川竜之介
骸は手前の娘が、片附《かたづ》いた男でございます。が、都のものではございません。若狭《わかさ》の国府《こくふ》の侍でございます。名は金沢《かなざわ》の武弘、年は....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
さいよ。あるきながら話しますから……」 女は巳之助が買いなじみの女郎で、品川の若狭《わかさ》屋のお糸というのであった。勤めの女が店をぬけ出して、今頃こんな処に....
高野聖」より 著者:泉鏡花
平寺《えいへいじ》に訪ねるものがある、但《ただ》し敦賀に一|泊《ぱく》とのこと。若狭《わかさ》へ帰省する私もおなじ処《ところ》で泊《とま》らねばならないのである....
修禅寺物語」より 著者:岡本綺堂
まいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企の判官能員の娘|若狭といえる側女ありしが、能員ほろびしその砌に、不憫や若狭も世を去った。今より後....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
、久政も黙止しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、此間信長陣替の時|丁野若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政の....
賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
けの水流るる頃、大軍を南下せしむべし、と云うのである。勝家喜び同心して、家臣小島若狭守、中村|文荷斎をして、前田利家、金森|長近、不破彦三を招き寄せた。勝家の云....
探偵夜話」より 著者:岡本綺堂
取りまぎれて、朝の四つ(午前十時)頃までそのままになっていると、同町内の絵草紙屋若狭屋の主人が町代の男と一緒にあわただしく和泉屋の店へ来て、ゆうべこちらの店にこ....
雪霊続記」より 著者:泉鏡花
敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉もさびしゅうございました。若狭鰈――大すきですが、それが附木のように凍っています――白子魚乾、切干大根の酢....
西航日録」より 著者:井上円了
った。) 正午十二時、天ようやく晴る。知友と袂をわかちて港内より発錨す。汽船は若狭丸と号し、六千二百六十トンの大船なり。晩来風浪少しく起こり、船体ために微動せ....
宝永噴火」より 著者:岡本かの子
入れて行った。かくて彼は求道の旅の範囲をだんだんに拡大して行って翌年宝永三年には若狭の国までも足を伸ばし、それから四国へも渡って松山の寺に止宿を頼んだりした。も....
エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
が、彼は述懐の歌を詠じて小屋に隠れたとあるのでも、その盛装の様子は察せられよう。若狭の無悪の部落では、もとは娘らに盛装せしめ、一般人の目を惹く事であったが、今は....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
りません。今でも地方によっては穢多と言う語はなくして、皮屋・皮坊などと云います。若狭に細工村という特殊部落のあるのも、皮細工人の意味です。上方あたりの古い地図や....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
通りである。エタの或る者が細工または細工人と呼ばれた事のあったのは疑いを容れぬ。若狭の三方郡|細工村は、もとエタ村として認められていた。また福井県史の編纂に従事....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
とか、土佐法師とか、近江法師、伊賀法師、摂津法師、越前法師、播磨法師、淡路法師、若狭法師などというように、国名を名乗ったり、或いは吉野法師とか、明石法師とかいう....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
も古えの清水坂非人の名残りを留めているのではなかろうか。 清水坂の非人は大和・若狭・近江あたりにまで連絡を保っておった。彼らは単に社寺にのみ隷属する神賤寺賤の....