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「荏原〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

荏原の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
新生」より 著者:島崎藤村
を不安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡《えばらぐん》に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移した....
空襲葬送曲」より 著者:海野十三
て、その上に、太い指を動かした。「淀橋区、四谷区は、大半焼け尽しました。品川区、荏原区は、目下延焼中であります。下町方面は、むしろ、小康状態に入りました」 「放....
海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
八棟が倒壊、死者二百名、傷者三百名ということだった。 次の被害顕著なるところは荏原区であったが、これは前者にくらべるとたいしたことはない。しかし戸越公園とか、....
みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様だ。東京が段々西へ寄って来て、豊多摩荏原の諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前|専ら穀作と養蚕でやって居た北....
解説(『風知草』)」より 著者:宮本百合子
。 「乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた....
風と光と二十の私と」より 著者:坂口安吾
★ 私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけた....
哀れなトンマ先生」より 著者:坂口安吾
帝銀先生は、てんで、トンマな、オロカ者なんでしょう。事件の性格がそうなんですね。荏原の銀行では、マンマと薬品をのまされたけれども、薬のキキメが現れない。そこで支....
明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
はず。奴め、こう悪智恵をめぐらした。 そこで母の記憶をたどり、横浜のオ月ドン、荏原郡矢口村のオキンドン、浅虫家の故郷から来ている何々ドン、何子チャンというのを....
貞操問答」より 著者:菊池寛
、だから明日は八時までに練習所へ、顔を出さなきゃいけないんですって……練習所は、荏原の方だから、早起きしなければいけないんですってね……」 美沢の噂をするのな....
仇討姉妹笠」より 著者:国枝史郎
であった。 「淀」という文字などは見えなかった。 その代わりかなりハッキリと「荏原屋敷」という文字が現われて見えた。 「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さ....
」より 著者:岡本綺堂
で、かの友蔵と幸吉も絶えず新しいものに眼をつけていると、嘉永四年四月十一日の朝、荏原郡大井村、すなわち今の品川区|鮫洲の海岸に一匹の鯨が流れ着いた。」 「大きい....
明日は天気になれ」より 著者:坂口安吾
京の予選なぞはおよそ侘しい限りで、戦争中のことであるが、当時黄金時代の日大三中と荏原中学が一回戦で顔があった。これが事実上の優勝戦であるばかりか、その勝者は甲子....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
はり武蔵守の家来で、去年の河原いくさには足軽大将をうけまわったのを誇りとしている荏原権右衛門であった。彼はすぐに鞍壺からひらりと降り立って、姫の前にうやうやしく....
獅子舞雑考」より 著者:中山太郎
七、仏事に用いた獅子舞の源流 元禄年中に、古河古松軒の記した「四神地名録」に『荏原郡大森村巌正寺(浄土宗)にては、毎年七月の仏祭に村の若い者大勢集りて、終日獅....
俳句の作りよう」より 著者:高浜虚子
は忘れることのできぬある境地であります。明治三十六年松山に帰省したついでに近在の荏原村という所に遊びに行ったことがありました。その時はある田舎の寺で俳句会があり....