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「藤堂〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

藤堂の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
老たちは、家康から一たまりもなく叱り飛ばされて散々の首尾であった。 「今日|井伊藤堂《いいとうどう》の勢《ぜい》が苦戦したを、越前の家中の者は昼寝でもして、知ら....
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
やけにまたちゃちなお殿さまだね」 「バカをいっちゃいかんよ。お禄高は三万石だが、藤堂近江守《とうどうおうみのかみ》様ご分家の岩槻藤堂《いわつきとうどう》様だ。さ....
乱世」より 著者:菊池寛
能な、ただ快を一時に遣る方法であることは、誰にもわかっていた。隣藩の亀山も、津の藤堂も勤王である。官軍を前にしては、背後にしなければならぬ尾州藩は、藩主同士こそ....
爬虫館事件」より 著者:海野十三
を見られるのも厭うように、スタスタと足早に立ち去った。園内の反対の側に遺されたる藤堂家の墓所があった。そこは鬱蒼たる森林に囲まれ、厚い苔のむした真に静かな場所だ....
鳥羽伏見の戦」より 著者:菊池寛
順の意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、また幕府のために山崎を守備していた津の藤堂家の藩兵は、天使を受けて帰順の意を表し、ひそかに薩長の兵をわが陣中に忍ばせて....
大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
出馬した後京都に火を放とうと云うにあった。 先ず大野治長の兵二千、四月二十六日藤堂高虎の砂に来るを待ち要撃せんとしたが、高虎到らざるため、暗峠を越えて郡山に火....
真田幸村」より 著者:菊池寛
元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり出で、御前で、藤堂高虎と大阪|攻口を絵図をもって、謀議したりしている。 また、冬の陣の当初、....
旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
の裏手は、地つづきと言っていい湯島天神へかけて、あんまり賑やかなところではない。藤堂家の大きな屋敷があって、内藤豊後守の屋敷があって、ちょっぴりとその真中へ狭ま....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
なると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂、備前、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのであ....
梅津只円翁伝」より 著者:杉山萠円
ったろう。 この時の在京中藩公の御前は勿論、喜多流の能楽堪能(皆伝)と聞こえた藤堂伯邸へも度々召出されて御能、お囃子等を仰付られた。 その時長知公の御所望で....
名人地獄」より 著者:国枝史郎
納言、紀州中納言、越前、薩摩、伊達、細川、黒田、毛利、鍋島家、池田、浅野、井伊、藤堂、阿波の蜂須賀、山内家、有馬、稲葉、立花家、中川、奥平、柳沢、大聖寺の前田等....
娘煙術師」より 著者:国枝史郎
の辺は屋敷町ではなくてむしろ町家町というべきであった。もっともはるか東北の方には藤堂|和泉守や酒井|左衛門尉や佐竹左京太夫や宗対馬守の、それこそ雄大な屋敷屋敷が....
枯尾花」より 著者:関根黙庵
と無く、加之子供が肥太りて、無事に成長せしは、珍と云うべし。 ◎伊賀の上野は旧|藤堂侯の領分だが藩政の頃|犯状明かならず、去迚放還も為し難き、俗に行悩みの咎人あ....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
焼いた。それは三月二十八日の午後六時五十分であった。これも自火ではなく、和泉町の藤堂邸から燃え出した大火のために類焼の禍に逢ったのである。市村座は元地の猿若町か....
斎藤緑雨」より 著者:内田魯庵
でもゾロリとした常綺羅で、困ってるような気振は少しもなかった。が、家を尋ねると、藤堂伯爵の小さな長屋に親の厄介となってる部屋住で、自分の書斎らしい室さえもなかっ....