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藤堂高虎
「藤堂高虎〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
藤堂高虎の前後の文節・文章を表示しています。該当する6件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
手として旗を岡山の方へと進めた。 家康は卯《う》の刻、輿《こし》にて進発した。
藤堂高虎《とうどうたかとら》が来合わせて、 「今日は御具足を召さるべきに」という....
「大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
出馬した後京都に火を放とうと云うにあった。 先ず大野治長の兵二千、四月二十六日
藤堂高虎の砂に来るを待ち要撃せんとしたが、高虎到らざるため、暗峠を越えて郡山に火....
「真田幸村」より 著者:菊池寛
元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり出で、御前で、
藤堂高虎と大阪|攻口を絵図をもって、謀議したりしている。 また、冬の陣の当初、....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
から分捕った時には、たしか五十八枚。大坂の乱後、家康が、井伊|直孝《なおたか》と
藤堂高虎の功を賞して手ずからその一枚ずつを与えたほかには、「行軍守城用、莫作《な....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
重んじ、三人または五人の殉死者のあるのが尋常とされていた。三重県津の城主であった
藤堂高虎が死んだ折に、十八名の家臣が追い腹を切り、その墳墓が主人の塋《けい》域を....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
伊賀上野城は従来、筒井入道|定次の所領であったものを、家康が没取して、これを
藤堂高虎に与え、その藤堂藩は、昨年、入部してから、上野城を改築し、年貢の改租やら....