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蘇我
「蘇我〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
蘇我の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
のは、この間の消息を伝えたのである。欽明天皇御宇のことである。 その後出雲氏は
蘇我氏に出入し多くの寵を蒙ったが、
蘇我氏亡びて親政となるや冗官を廃する意味におい....
「ああ玉杯に花うけて」より 著者:佐藤紅緑
の歴史中に悪い人物はたれか」 いろいろな声が一度にでた。 「弓削道鏡です」 「
蘇我入鹿です」 「足利尊氏です」 「源頼朝です」 「頼朝はどうして悪いか」と先生....
「死者の書」より 著者:折口信夫
て来た。 葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た
蘇我臣なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城なども高く、幾重にも....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
〔巻二・一四一〕 有間皇子 有間皇子(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、
蘇我赤兄に欺かれ、天皇に紀伊の牟婁の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留....
「飛騨の顔」より 著者:坂口安吾
ツに自分のやった悪役を押しつけたりしているように思われるのですが、たとえば悪役の
蘇我氏、または
蘇我氏の先祖の竹内スクネ、これらは実在の人物ではなくて、嫡流を解体....
「保久呂天皇」より 著者:坂口安吾
図を察することができなかった。できないはずだ。もともと人の考えつくことではない。
蘇我入鹿が考えただけだ。久作は天皇なみのミササギをつくろうというのだ。三人の子供....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
確かなのである。そして天皇家に直接征服されたものが、大国主命だか、長スネ彦だか、
蘇我氏だか、それも見当はつけ難いが、征服しても、征服しきれないのは民間信仰あるい....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄に奉ったという。
蘇我氏の亡びるとともに天皇家や日本の豪族の系図や歴史を書いたものがみんな一緒に亡....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
の国へ行って散ったとある。さきの日本武尊の路を逆に行ったものでしょう。その前年に
蘇我馬子が死んでいます。その結果として大争乱が帝都に起って、クーデタの結果として....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、
蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台に....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
表せられ、 タケル(梟師)が遂に尊称となりし如く、エミシも亦貴名となり了りぬ。
蘇我氏の一大臣は蝦夷とも蝦※とも正史に出でたり。エミシを又エビスとも云ひたり。其....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
円の大臣は、黒彦皇子・眉輪王等とともに、雄略天皇の為に家ぐるみ焼かれてしまった。
蘇我入鹿が山背大兄王を斑鳩宮に焼かしめた時には、灰中の遺骨を見て王既に死し給うと....
「道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
覦者として数えられるが、これも孝元天皇の皇胤として、ただの臣籍の例には引き難い。
蘇我入鹿にも多少その嫌疑が無いでもないが、彼もまた同じく皇胤であるの誇りを持って....
「古事記」より 著者:太安万侶
セノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は
蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向《たかむく》の臣・小治田《おはりだ》の臣・櫻井....
「仏教人生読本」より 著者:岡本かの子
ません。時によっては勇猛鬼神を怖れしめるお働きもなさったのであります。 それは
蘇我馬子とともに、物部守屋を誅伐された時でありました。御齢は十四歳でいられました....