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西園寺
「西園寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
西園寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「温情の裕かな夏目さん」より 著者:内田魯庵
じ曲りだと世間に言われるような事もあったか知れない。千駄木にいられた頃だったか、
西園寺さんの文士会に出席を断って、面白い発句を作られたことがある……その句は忘れ....
「食魔」より 著者:岡本かの子
大根のちりを喰べ進んで行った。この料理に就ても、彼には基礎の知識があった。これは
西園寺陶庵公が好まれる食品だということであった。彼は人伝てにこの事を聞いたとき、....
「近時政論考」より 著者:陸羯南
がごとし。吾輩は仮りにこれを名づけて新自由論派と言わん。今のベルリン駐※公使なる
西園寺侯は新たに仏国より帰りて、二、三の同志を糾合し、たとえ暫時なりとも『東洋自....
「現代日本の思想対立」より 著者:戸坂潤
外耄碌してはいなかったらしい。 尤も重臣と云っても、元老とは別だから、自然と、
西園寺公は除外される。そして重臣とは斎藤、高橋の諸重臣等(?)をも含むのだそうで....
「赤旗事件の回顧」より 著者:堺利彦
上京してあとの運動を収拾しようとした。しかし形勢は大いに変化していた。同年七月、
西園寺(さいおんじ)内閣が倒れて桂内閣がそれに代わった。
西園寺内閣の倒れた原因の....
「明治美人伝」より 著者:長谷川時雨
居たのである。照近江から初代お鯉が桂公の寵妾《ちょうしょう》となり、二代目お鯉が
西園寺侯爵の寵愛となった。二代つづいて時の総理大臣侯爵に思われたので、桃吉も発奮....
「雪の宿り」より 著者:神西清
の日の兵火に三宝院の西は近衛殿より鷹司殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、
西園寺殿、転法輪、三条殿をはじめ、公家のお屋敷三十七、武家には奉行衆のお舎八十ヶ....
「一世お鯉」より 著者:長谷川時雨
かつら》さんのお鯉さんと呼ばれた。二世お鯉――それも姐《ねえ》さんの果報に負けず
西園寺《さいおんじ》さんのお鯉さんと呼ばれた。照近江《てるおうみ》のお鯉という名....
「九代目団十郎の首」より 著者:高村光太郎
いた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。明治文化という事からいえば、
西園寺公の様な方にも同じ事がいえるけれど、肉体を素材とせらるる方でない上に、現代....
「自作肖像漫談」より 著者:高村光太郎
の事だから多くを語り得ない。 彫刻家生活をつづけて居て、今最も残念に思うのは、
西園寺公の肖像を作る機会を逸してしまった事である。父の生きているうちなら何とか方....
「明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
居の基礎確立――歌舞伎側の敗北 紅葉館の劇談会 劇評家の引幕――天金の天ぷら――
西園寺侯の劇談会――尾崎紅葉の居眠り――劇談会消滅 演伎座の新蔵 団十郎門下出勤....
「二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
前途に平生口にする大抱負を有するなら努めて寛闊なる襟度を養わねばならない、例えば
西園寺侯の招宴を辞する如きは時の宰相たり侯爵たるが故に謝絶する詩人的|狷介を示し....
「明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
月二十日、角藤定憲、大阪に死す、四十一歳。壮士芝居の開祖なり。 ○二月二十五日、
西園寺首相邸に晩餐会あり、芝翫、八百蔵、高麗蔵などの歌舞伎座幹部俳優みな招待せら....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
られているといってもよい位である。 また内大臣|実宗の女を妻とした。これは後の
西園寺太政大臣|公経の同胞であった。そこで定家は歌ばかりでなく、九条家や
西園寺家....
「西園寺公の食道楽」より 著者:北大路魯山人
に言う五・一五事件)直後、緊張しきっている帝都へ、興津の坐漁荘を出て乗り込まれた
西園寺公の駿河台における警戒裡の日常嗜好の一端が、去る五月二十八日の「東京朝日新....