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「解纜〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

解纜の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
オリンポスの果実」より 著者:田中英光
るような気になり、切なくてたまらなかったのです。 例《たと》えば、船に、横浜|解纜《かいらん》の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩....
疑問の金塊」より 著者:海野十三
び目の前に見える。二人は意気揚々と本庁へ引上げていったことだろう。 そのとき、解纜を知らせる銅鑼の音が、船首の方から響いてきた。いよいよお別れだ。私は帽子に手....
無惨」より 著者:黒岩涙香
の為めに清国領事まで通知し領事庁にて調たるに施寧は俄に店を仕舞い七月六日午後横浜解纜の英国船にて上海に向け出帆したる後の祭にて有たれば大鞆の気遣いし如く一大輿論....
踊る地平線」より 著者:谷譲次
ることが出来たのだった。 四月二十日出帆というのに、潮の工合で、二十日は早朝に解纜するから、十九日一ばいに乗り込むようにというお達しである。ポウト・トレインは....
潜航艇「鷹の城」」より 著者:小栗虫太郎
語りだす遭難の情景を、作者は、便宜上船内日誌を借りることにする。 本船は横浜|解纜の際、以前捕鯨船の砲手であったヴィデを招き、同時に四|吋の砲を二門積み込んだ....
取舵」より 著者:泉鏡花
きなり。 さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解纜を見合すをもて、却りて危険の虞寡しと謂えり。されどもこの日の空合は不幸にして....
沈黙の水平線」より 著者:牧逸馬
〇九年、七月二十六日、ワラタ号は倫敦《ロンドン》へ向けて南亜弗利加ダアバンの港を解纜した。乗組員は船長以下百十九人、船客九十二人。英本国・濠洲間の定期客船で、こ....
瘠我慢の説」より 著者:木村芥舟
安芳)以下長崎|伝習生を以てし、太平洋を絶りて北米桑港に徃くことを命じ、江戸湾を解纜したるは、実に安政六年十二月なり。首尾能く彼岸に達して滞在数月、帰航の途に就....
西航日録」より 著者:井上円了
陸し、泉氏の宅にて丘道徹氏および山名、西尾等の諸氏に会す。 二十一日未明、門司解纜。海上風波あり。西航五百里、シャンハイ河口なる呉淞に達せしは二十二日夜半なり....
南半球五万哩」より 著者:井上円了
執行中なるも、好意にて別杯を具せらる。夜に入りて帰船す。 七日、晴れ。午後五時解纜す。崎陽三十六湾、春色を装ってわが行を送る。たちまちにして暮雲雨をはらし、鎮....
本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
こそ此の世の中のうちにて、此の身ながら詣《もう》でぬべき所なれ』とて、土佐国から解纜したことが載せてある。藤原頼長の日記である台記の康治元年八月十八日の条に、権....
咸臨丸その他」より 著者:服部之総
』には、合衆国の太平洋郵船会社の定期汽船がはじめて北太平洋を横断すべく、金門湾を解纜《かいらん》したのは一八六七年一月だったと記している。船名は不明。(前文「汽....
汽船が太平洋を横断するまで」より 著者:服部之総
トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜《かいらん》、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらいだから、....
私本太平記」より 著者:吉川英治
せていた。もことして、雨まじりの西風が波間をしぶき立てている。――すでに今日はと解纜を期していたのである。 この日、陸上軍の直義からは、もう何の連絡も来なかっ....
フレップ・トリップ」より 著者:北原白秋
堂ではそろって麦酒の乾杯をした。驚いたのは同行すべきはずの庄亮(歌人|吉植君)が解纜前五、六分前に、やっとリボンもつけない古いパナマ帽に尻端折りで、「やあ」と飛....