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「諡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

諡の前後の文節・文章を表示しています。該当する11件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。死して文達公とされましたので、普通に紀文達とも申します。 この著作は一度に脱稿したものでは....
運命」より 著者:幸田露伴
年を建文元年としたまいぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟を得たもうこと無く、正徳、万暦、崇禎の間、事しば/\議せられて、而も遂に行われ....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
い伝えられるものであった。この国|未曾有の仏法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の号にほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、....
渋江抽斎」より 著者:森鴎外
抽斎の父|允成である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の....
中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
まして、所々の知州などを勤めた末に、端明殿学士となって退隠しました。死して文敏とされて居ります。その著書や随筆は頗る多いのですが、一般的に最もよく知られている....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
ったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介行宗《むつのすけゆきむね》の《おくりな》が念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海....
細木香以」より 著者:森鴎外
した。子之助が甫て二歳の時である。八年七月二十九日には祖父伊兵衛の妻が歿した。法を臨照院相誉迎月|大姉と云う。子之助が四歳の時である。十一年には父の友|楚満人....
鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
あっても、その博覧癖と穿鑿癖とが他日の大成を十分約束するに足るものがあった。『帝考』の如き立派な大著を貢献されたのは鴎外の偉大な業績の一つである。考証家の極め....
三国志」より 著者:吉川英治
っていたが、やがて、 「荀※は、ちょうど五十歳だったな。不愍なことをした、敬侯としてやれ」 それきり何もいわなかった。多少、悔ゆる色がないでもない。 日を....
三国志」より 著者:吉川英治
褒賞の沙汰があり、故曹操の大葬終るの日、高陵の墳墓には特使が立って、 ――以後、して、武祖と号し奉る。 という報告祭を営んだ。 さて。葬祭の万端も終ってか....
三国志」より 著者:吉川英治
のいのちはなかったものである。悲しいかな、いまその人は逝く」 勅して、順平侯とし、成都郊外の錦屏山に、国葬をもって厚く祭らしめた。また、その遺子|趙統を、虎....