護良親王[語句情報] » 護良親王

「護良親王〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

護良親王の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
大菩薩峠」より 著者:中里介山
らぬというのが、当時の気概ある公卿の憂慮でありました。 京都の公卿をして、再び護良親王《もりながしんのう》の轍《てつ》を踏ましむるなかれという気概のために、憎....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
はよいが、漁夫に利を与えてまた足利にしてやられてはならぬ、公家の英雄をして、遠く護良親王《もりながしんのう》や、近く中山忠光卿のあとを踏ませてはならぬのじゃ……....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
ろうという川崎先生の鑑定でありました。それから、また一方に同氏の調べた中に大塔宮護良親王の兜の前立が楠公の兜の前立と同様なものであろうという考証が付いたのです。....
赤坂城の謀略」より 著者:国枝史郎
(時こそ来たれり) と正成は思い、この赤坂城にそれ以前から、お籠りあそばされた護良親王様を、まず第一に落し参らせ、つづいて将卒を落しやり、火かくる者一人をとど....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
信州・北陸から関東・陸奥にかけ、常に連絡も取れたし、それに北条氏討伐御計画の頃、護良親王の令旨は全国に飛んでいるので、地方には最後まで吉野朝に味方した豪族が多く....
宮本武蔵」より 著者:吉川英治
元弘、建武の頃から正平年間にわたる長い乱世にかけてこの御山が、時には、大塔宮護良親王の戦勝祈願をこめらるる大炉となり帷幕の密議所となり、また時には、楠正成た....
私本太平記」より 著者:吉川英治
にした六波羅飛報によれば。 ――そのご、行方も知れず、といわれていた大塔ノ宮|護良親王は、先頃来、こつねんと吉野山の愛染宝塔に拠って砦をきずき、諸国へむかって....
私本太平記」より 著者:吉川英治
それほどな今なのに。 なぜか。この平和に、不服らしいお人がいる。大塔ノ宮|護良親王のご態度である。それはたれにも解せないものに見えた。 「信貴山といえば、....
私本太平記」より 著者:吉川英治
禍根を断ちおかねば、百年の後、悔いてもおよばぬ」 「それこそは、さきの大塔ノ宮|護良親王の御遺志でもあった。いまにして宮の御先見がおもいあたる」 僉議の席では....
随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
正成(二十八、九)北畠親房(三十二)日野資朝(二十九)日野蔵人俊基(二十六、七)護良親王(十七)――また、後醍醐天皇は三十七歳の御壮年だし、楠木|正行や北畠|顕....