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豊臣
「豊臣〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
豊臣の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
ふた品はなんであろう。 「あれは高島が家重代の宝物でござる」と、梶井は説明した。
豊臣秀吉が朝鮮征伐のみぎりに、高島が十代前の祖先の弥五右衛門は藩主にしたがって渡....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
せながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。 鎌倉の東慶寺には、
豊臣秀頼の忘れ形見という天秀尼の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷って生....
「姉川合戦」より 著者:菊池寛
た淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、
豊臣家の社稷はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。....
「川中島合戦」より 著者:菊池寛
ろう。つまり戦場に居残った方が勝である。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の....
「大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。それまで、
豊臣恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神様じゃないし、自....
「真田幸村」より 著者:菊池寛
の幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。 一体真田幸村が、
豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと....
「日本脱出記」より 著者:大杉栄
顔をして聞いた。 「何故って君、唐世民だろう、あれは唐の太宗の名で、日本で言えば
豊臣秀吉とか徳川家康とかいうのと同じことじゃないか。が、お蔭で僕は、それが君だっ....
「秋の筑波山」より 著者:大町桂月
也。智仁勇を兼ねたる名将として鳴りとゞろきたる英雄なるが、其一生は失敗の歴史也。
豊臣秀吉小田原征伐の際、徳川家康に謂つて曰く、関東に二つの不思議あり。卿之を知れ....
「怪異黒姫おろし」より 著者:江見水蔭
い者の一人であった。 甲州老人のは武田家再興の夢であったが、洞斎老人のは、敢て
豊臣家再興は望まなかった。真田幸村の弔い合戦、それが主でもあったけれど、第一には....
「瘠我慢の説」より 著者:石河幹明
れば大成功と認めざるを得ず。およそ古今の革命には必ず非常の惨毒を流すの常にして、
豊臣氏の末路のごとき人をして酸鼻に堪えざらしむるものあり。然るに幕府の始末はこれ....
「小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
…姫山でござります。」 姫山は今日の姫路である。ここが姫路と呼び換えられたのは
豊臣時代からのことで、南北朝時代には姫山と呼ばれていた。播磨路――姫山――それを....
「小坂部伝説」より 著者:岡本綺堂
郎などというのもある。これは淀君と秀頼とになぞらえたもので、小坂部の怪談に託して
豊臣滅亡後の大坂城をかいたのである。現に大坂城内には不入の間があって、そこには淀....
「明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
などが嚆矢であろう。学海居士は川尻宝岑と合作で、そのほかにも「吉野拾遺名歌誉」「
豊臣太閤裂封冊」「拾遺後日連枝楠」などの史劇を公けにして、その時代においては議論....
「飛騨の怪談」より 著者:岡本綺堂
。兜の行方は遂に不明であった。 朝高の家は三代で亡びた。其後幾多の変遷を経て、
豊臣氏時代から徳川氏初年までは金森氏ここを領していたが、金森氏が罪を獲てから更に....
「空中征服」より 著者:賀川豊彦
と笑いながら降壇してしまった。 船場が松島に耳うちしたことはほかでもない。 「
豊臣太閤秀吉公が傍聴に来られたから、つまらぬことを言うな」 と注意したのであっ....