賀茂[語句情報] »
賀茂
「賀茂〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
賀茂の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「赤耀館事件の真相」より 著者:海野十三
に近い若い麻雀闘士が、鯨ヶ丘の上に威勢よく昇って来ました。麻雀聯盟の委員長である
賀茂子爵の鶴のような痩身の隣りには、最高の段位を持つ文士樋口謙氏の丸まっちい胡桃....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
れなかったなど、有名な話である。大体彼は建築道楽で、寛正の大飢饉に際し、死屍京の
賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。 彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三....
「伯爵の釵」より 著者:泉鏡花
、何処にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳百日の旱の候いけるに、
賀茂川、桂川、水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――....
「最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
生活する斎女王といふ高級巫女が、天子の近親から択ばれた。伊勢の斎宮に対して、後世
賀茂の斎院のできたことからみれば、本来は主神に仕える皇族女子のほかにも、有力な神....
「なよたけ」より 著者:加藤道夫
になれないんだわ。 けらお (なよたけを無視して)面白いぞイ! みんなも来いや!
賀茂川の橋の下で石合戦して遊ぶんだ! 勇ましいぞイ! おら敵の大将に石ぶつけて、....
「明治懐顧」より 著者:上村松園
ばかりにたよっていたのではありません。よいお天気の日など、急に先生が、「これから
賀茂あたりへ写生に行こう」と言われて社中のもの幾人か先生のお供をしたものでした。....
「くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
六頁)。土佐その他にもこの名称は少くないらしい。しかし河原者や坂の者がいつまでも
賀茂川の河原や清水坂にのみ住んでいなかった様に、谷の者もいつまでも谷にのみ住んで....
「炭焼長者譚」より 著者:喜田貞吉
藤原氏が五百八十名、平氏が百十三名の多きに及び、次に橘氏五十名、菅原氏二十九名、
賀茂(鴨)氏十四名、紀氏十二名、小野氏・越智氏各十一名、秦氏十名で、それから下は....
「オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
らその地方を領した神で、秦氏は代々その祠官となっていた。古くからその地に鎮座した
賀茂の上下の社のごときも、初めはやはり秦人が祭ったので、これは後に女婿鴨県主家に....
「サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
だと云っているのである。坂ノ者とはもと京都東山の五条坂あたりに居た一種の部族で、
賀茂河原に居た川原者と相対して、しばしばその名が古書に見えているものであった。師....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
は早くから文学の才をあらわした。今残っている最も早い歌は治承二年十七歳のとき、上
賀茂神社の歌合でよんだ三首である。定家十四のとき俊成は皇太后宮大夫を辞して、定家....
「エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
ろ平民よりも一層自由であったに相違ない。遠い平安朝の話ではあるが、「江談抄」に、
賀茂祭に立つ放免という非人が、綾羅を身に着けている事について問題の起った事がある....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
えている。この島田すなわち後々所謂島(小島)の地であろう。鴨河原とはすなわち今の
賀茂川の河原で、当時
賀茂川は勝手に我儘をして、今の京都河原町から寺町あたりにまで....
「「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
職とする輩は、常にその穢を繰り返している事であるから、特に触穢をやかましく云った
賀茂御祖神社では、その付近に屠者の住むを禁じたとの事もあったけれども、それも単に....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
いものとされておった。延喜式臨時祭の際に、 。 とある。これは鴨御祖社すなわち下
賀茂神社が、
賀茂川の畔にあって、当時濫僧屠者の輩が、いわゆる河原者または小屋者と....