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「輿丁〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

輿丁の前後の文節・文章を表示しています。該当する12件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
出家とその弟子」より 著者:倉田百三
弟子) 橘基員(武家) 家来 二人 侍医輿丁 数人 僧 数人 善法院....
千曲川のスケッチ」より 著者:島崎藤村
ら血が流れた。「御輿を下せ御輿を下せ」と巡査が馳せ集って、烈しい論判の末、到頭|輿丁の外は許さないということに成った。御輿の周囲は白帽白服の人で護られて、「さあ....
細木香以」より 著者:森鴎外
いた駕籠屋は銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使に毎日二人ずつの輿丁が摂津国屋に詰めていた。 濃紫が家に来た後も、香以の吉原通は息まなかった。....
憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
童子の如きは、本来筋の違う山人の子孫であるという事を以て、御所に薪炭を供給し、駕輿丁にも採用されたので、後の世までも一種変った伝説と風俗とを保持し、御所と特別の....
私本太平記」より 著者:吉川英治
、運輸だけではなく、魚貝の売買、塩の仲次ぎ、小酒屋、石切り、鍛冶、車造り、馬子、輿丁、瓦焼き、木挽き、船大工。――または酢売り、白粉売り、麹売りなどの販ぎ女から....
私本太平記」より 著者:吉川英治
によれば、途中、牛車はすてて怪しげな張輿に召し換えられたとある。 かつまた、駕輿丁の雑人をつれていたわけでもないので、そのおん輿は、大膳ノ大夫|重康、楽人の豊....
私本太平記」より 著者:吉川英治
日目でやっと千本ノ宿。そして翌日は、どうにか杉坂を越えたものの、三日月村ではもう輿丁の者も、輿のうちの御方も、まったく疲れはてていた。 その代りに、佐々木道誉....
私本太平記」より 著者:吉川英治
う鞍ズレに耐えぬ」 とのお訴えで、いずれもここで輿となった。 輿をになうのも輿丁ではない。どれもさんざんに戦い疲れた兵どもである。日ごろは小指の血にすら色青....
私本太平記」より 著者:吉川英治
賢所の神器を、玉体にお添えし、鳳輦へと、お急き立てはしたものの、それをかつぐ駕輿丁の者はいず、ぜひなく、衛府の士が前後を担いまいらせる。また、供奉の公卿も、若....
私本太平記」より 著者:吉川英治
元々、ここにあった三種の神器は偽物と知れているので、扱いもぞんざいをきわめ、駕輿丁の小者や武士らが鳳輦で無造作にかついで行った――と公賢自身の日記にも書かれて....
エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
倉・室町時代には、キヨメ或いは河原ノ者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘り・駕輿丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職掌上、世間から幾分賤視されてはいたであ....
「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
」は井戸掘り人足であった。また貞治四年「師茂記」に見える「穢多」は祇園御霊会の駕輿丁であった。文安の「※嚢抄」に見える「エッタ」は河原の者と云っておった。これら....