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遺風
「遺風〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
遺風の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「本州横断 癇癪徒歩旅行」より 著者:押川春浪
《いや》らしき腰は、盆踊りより数倍も馬鹿気たものである。しかるに、盆踊りは野蛮の
遺風だとかなんとかいって、一も二もなく先祖伝来の盆踊りを禁止し、他《た》に楽み少....
「最終戦争論」より 著者:石原莞爾
は武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した
遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
。 今日ならば、生徒|虐待とか云って忽ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の
遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於いて、そのくらいの仕置....
「黒死館殺人事件」より 著者:小栗虫太郎
、これは呪詛だよ。なにより、ディグスビイは威人なんだぜ。未だに、悪魔教バルダスの
遺風が残っていて、ミュイヤダッハ十字架風の異教趣味に陶酔する者があると云われる―....
「山越しの阿弥陀像の画因」より 著者:折口信夫
居たのである。こう言う「女の旅」の日の、以前はあったのが、今はもう、極めて微かな
遺風になってしまったのである。 併し日本の近代の物語の上では、此|仄かな記憶がと....
「明治時代の湯屋」より 著者:岡本綺堂
代の湯屋の二階番は男が多かったらしい。江戸末期から若い女を置くようになって、その
遺風は東京に及び、明治の初年には大抵の湯屋に二階があって、男湯の入口から昇降が出....
「三十年前の島田沼南」より 著者:内田魯庵
じて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の
遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦を侶にした社員を....
「オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
コロカムイと同様のものであって、もと蝦夷の国であったこの東北地方に、今もってその
遺風が保存せられたものと解したい。 余輩のこの臆説がいよいよ証明せられるまでに....
「南半球五万哩」より 著者:井上円了
賢の人は疫病を避けてこの片田舎に臥し、ひとたびの夢むすびて千万言の書をなす。その
遺風を慕ってこの古屋をたずねると、老婆は私のために民敦について話すのであった。)....
「特殊部落と寺院」より 著者:喜田貞吉
仏教者や神道家が、エタに近づくのをすら穢としたのは、もとより決して彼らの祖先の
遺風ではない。しかし間違いながらにも彼らは、通例甚だしくエタを排斥するのが事実で....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
雲の三保では、ハチヤ部落へ行って産をする習慣があったという。これらはけだし産所の
遺風が遺っているのではあるまいか。 産所がもとの産小屋の地に住んだままで、一種....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
らは、古えは仏者の済度の手から漏れて、その妙味を味わうことなく、太古以来の祖先の
遺風をそのままに継承して、屠殺肉食敢えて忌むところがなかったのである。しかもなお....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
ビトで、坂の者の本来の所業であったが、犬神人の間には徳川時代になっても、なおその
遺風が多少存して、正月元日の早朝には、禁裏御所の日華門前において、毘沙門経を読誦....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
縄張りを有して、警固雑役に従事しつつ村民の扶持を受けておったのも、おそらくはこの
遺風であると解せられる。もちろん茶筅・鉢屋・エタの類のすべてがこの徒に出でたもの....
「戦争史大観」より 著者:石原莞爾
補生を別室に収容して兵と離隔し身の廻りを当番兵に為さしむる等も貴族的教育の模倣の
遺風である。速やかに一抛、兵と苦楽をともにせしめねばならぬ。率先垂範の美風は兵と....