還幸[語句情報] » 還幸

「還幸〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

還幸の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
四条畷の戦」より 著者:菊池寛
ならない。 元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和|長年以下の凱旋諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
でもなく、国家のために軽々しく龍体を危うくされ給うまいと慮らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿の御車寄せのところで水を召し上がっ....
古事記物語」より 著者:鈴木三重吉
うたいていにしてお帰りなさい」とお歌いになり、まもなくおともどもに難波のお宮へご還幸になりました。 天皇はそれといっしょに、八田若郎女においとまをおつかわしに....
田園雑感」より 著者:寺田寅彦
「カーンコ、カンコ」と響くのである。どういう意味だかわからない。ある人は「南門殿還幸」を意味すると言っていたがそれはあまり当てにはならない。私はむしろ意味のわか....
源氏物語」より 著者:紫式部
ら、感情のままに父帝のもとにとどまっておいでになることはできない。その日のうちに還幸されたのであるから、お二方のお心は、お逢いになったあとに長く悲しみが残った。....
源氏物語」より 著者:紫式部
は仰せられ、源氏も御|挨拶《あいさつ》をした。 「また別の日に伺候いたしまして」還幸の鳳輦《ほうれん》をはなやかに百官の囲繞《いにょう》して行く光景が、物の響き....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
には既に雪が降っていた。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったの....
赤坂城の謀略」より 著者:国枝史郎
一事を指しておられるのであろう。三百七十余日とあるからには、明年のその頃に都へ御還幸、御位に復されるやも計られぬ。……しかしそれにしてもその次に書かれた、※猴ノ....
三国志」より 著者:吉川英治
ていたものだろうか。 「天下一日も帝なかるべからずです。さあ、一刻も早く、都へご還幸なされませ」 閔貢のことばに、崔毅は、自分の厩から、一匹の痩馬を曳いてきて....
三国志」より 著者:吉川英治
ものだ」と、咎めた。 侍中郎の楊※が、馬をすすめ、 「これは、漢の天子の弘農へ還幸せらるる御車である。不敬すな!」と、叱咤した。 すると、大将らしい者二人、....
三国志」より 著者:吉川英治
た侍従以下の供人たちは、 「どう遊ばしたのであろう?」 と、あやしみ疑い、はや還幸をおすすめ申さんかなどと、寄り寄りささやき合っていた。 ところへ孔明が帝の....
三国志」より 著者:吉川英治
、長安の守備には郭淮、張※をとどめ、そのほか要路の固めも万全を尽して、帝は洛陽へ還幸した。 ときに孔明は漢中にあり、彼としてはかつて覚えなき敗軍の苦杯をなめ、....
三国志」より 著者:吉川英治
ましょう。陛下の御輦を守って、呉へ奔り、他日の再起を図らんには、またいつか蜀都に還幸の日が来るにちがいありませぬ」 「いや呉は恃み難い。むしろ呉は、蜀の滅亡をよ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
ら滝口(近衛兵)の甲冑まで、洩るるはなき鹵簿であったが、俊基朝臣だけは、天皇のお還幸を仰いだ後も、あとの残務にとどまるものと見せて、じつは飄然、絵所の一絵師と名....
私本太平記」より 著者:吉川英治
を仰いだ日は、東大興福の二大寺を挙げ、盛儀三日三夜のご歓待は申すもおろか、鹵簿の還幸には、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝の古えもかくやと、みな申し囃したもので....