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「鎌倉幕府〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

鎌倉幕府の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
不審庵」より 著者:太宰治
学びし形跡は、ものの本に於いていちじるしく明白に御座候。 そもそも茶道は、遠く鎌倉幕府のはじめに当り五山の僧支那より伝来せしめたりとは定説に近く、また足利氏の....
十二支考」より 著者:南方熊楠
輿地誌略』十一に引いた通り、『古事談』に次の話あれば勇士が竜を助けて鐘を得た話は鎌倉幕府の代既にあったのだ。その文を蒿蹊が和らげたままに概略を写すとこうだ。三井....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
ょう――さむらいという言葉は本来、いつの頃から起った言葉か知らないが、少なくとも鎌倉幕府以前には、特にさむらいという遊民はなかったようです」 「左様――事ある時....
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
である。したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。鎌倉幕府の開設は、たんに政柄の把握者を替えたのみではない。政庁の所在地を移したの....
学生と先哲」より 著者:倉田百三
みて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようやくに感じはじめたので、彼を威....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
ったのだ。 しかし、コマ村だけはいつまでも蝶にならなかった。すくなくとも頼朝が鎌倉幕府を定めるころまでは、コマ家は一族重臣のみと血族結婚していたのである。 ....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
かるに、鎌倉時代において京師の※紳が目して東夷もしくは夷となすものは、往々にして鎌倉幕府を指し、あるいは一般に武士を示すの語となれり。『太平記』俊基朝臣東下りの....
炭焼長者譚」より 著者:喜田貞吉
みれば、だんだん栄花がほしくなる。なお俘囚の長たる平泉の藤原氏や、東夷と呼ばれた鎌倉幕府が、都の文化を輸入し、都人を使役した様に、その富にまかせて里の文化の輸入....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
経過しました鎌倉時代の末頃に、津軽に蝦夷の乱が起ったという事実があります。これは鎌倉幕府の威力を以てしても、容易に鎮定することが出来なかった程の、盛んなものであ....
本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
めである。こうした信仰は長く同地を補陀洛渡海の解纜《かいらん》地としたのである。鎌倉幕府の記録である吾妻鏡天福元年五月二十七日の条には、聴くも憐《あわ》れな補陀....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
別の形で受け取られたに違いない。神代この方の皇統を後に荷担われた上皇の自覚には、鎌倉幕府の権力の生長が、まざまざと影を映しつつあったであろう。藤氏擅権の極におい....
福沢諭吉」より 著者:高山毅
てしまいました。 アメリカの初代大統領のジョージ=ワシントンといえば、日本では鎌倉幕府をひらいた源頼朝か、江戸幕府をひらいた徳川家康とおなじようなものです。徳....
私本太平記」より 著者:吉川英治
足利の地にとっては、こりゃ対岸の火災とは見ておれまいぞ。乱が大きくなれば、必定、鎌倉幕府からわが家へも、出兵の令が降るであろうし、なおまた……」 ここまで言い....
私本太平記」より 著者:吉川英治
などの問屋経済の基盤やら、また、一令これぐらいな軍はいつも動かしうる実力あっての鎌倉幕府なので、田楽や白拍子や闘犬や、それらの遊戯|三昧のみで、万戸の炊煙が賑わ....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
武家華族の家についてみても、徳川時代の諸大名は大抵戦国時代に新たに起ったもので、鎌倉幕府以来の大名の子孫が、そのまま継続しているものは僅かに指を屈するばかりしか....