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「関ヶ原〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

関ヶ原の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
山崎合戦」より 著者:菊池寛
る。 中央軍の斎藤利三父子を初め、左右両翼とも、明智方の将士は、よく奮戦した。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに人士を得ていたかを知るに....
大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
、絶対に秀頼を亡そうと思っていたかどうかは疑問である。絶対に亡そうと思っていたら関ヶ原以後、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。....
真田幸村」より 著者:菊池寛
と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであ....
流行暗殺節」より 著者:佐々木味津三
馬が歩けば、馬上の荷物も自然と歩くとみえて、京を落ちてから四日目の夕方、水口から関ヶ原を廻ってかくれ街道を忍んで来た落人たち三人は、ようやく名古屋の旧お城下へ辿....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
、御家人旗本の間の大流行は、黄白な色の生平の羽織に漆紋と言われるが、往昔家康公が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張った風俗がま....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
蒲生と呼ばれた家の賢秀《かたひで》というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の....
わが血を追ふ人々」より 著者:坂口安吾
きこえる。彼は聖処女の山師であつた。 彼らは大垣の宿をでゝ、南宮山を眺めながら関ヶ原を歩いてゐた。たゞこの古戦場を見るために帰りの旅に陸路を選んだ甚兵衛は感無....
街はふるさと」より 著者:坂口安吾
フンプンとして人の通る姿もなく、烏の群だけが我がもの顔に舞いくるっていたものだ。関ヶ原の畑をほると、今でも戦死者の骨がでゝくるそうだが、賀茂の河原からは、何も出....
深見夫人の死」より 著者:岡本綺堂
呪詛が三好家に付きまとって、代々の家族が蛇に祟られるというのである。 三好家は関ヶ原の合戦以後、武士をやめ普通の農家となったが、その祟りはやはり消え去らないの....
馬妖記」より 著者:岡本綺堂
、彼は慶長二年に世を去って、養子の金吾中納言秀秋の代になると、間もなく慶長五年の関ヶ原の戦いが始まって、秀秋は裏切り者として名高くなったが、その功によって徳川家....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
田舎豪傑の域をでず、精一パイ勘考して、仙台青葉山を選んだんじゃないかね。時まさに関ヶ原の年であり、ドサクサまぎれに火事場泥棒しようというコンタンでねりかたまって....
安吾人生案内」より 著者:坂口安吾
なっても、にわかの大事に会うと、顔色蒼白となり、手の爪をかむクセがあったという。関ヶ原の時、戦闘開始するや、秀秋の裏切りがハッキリするまで形勢全く彼に非で、金吾....
明日は天気になれ」より 著者:坂口安吾
か、もうダメか、なぞと独り言をつぶやき、一時的にウワの空の状態がつづいたという。関ヶ原の時なぞも金吾中納言の裏切りが起る直前までというものは、味方の旗色が悪かっ....
迷信解」より 著者:井上円了
日等、いちいち挙ぐるにいとまないほどである。 徳川家康は凶方をおかして出陣し、関ヶ原の勝利を得たりしことは『小学修身書』に出ておるが、これと同じく、唐の太宗は....