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関八州
「関八州〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
関八州の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
りゅう》にかかるもので、慶安四年の由比《ゆい》正雪騒動のときまで前後三十年間ほど
関八州一円に名をうたわれていた虚無僧寺でしたから、鈍いようには見えてもさすがに伝....
「仇討三態」より 著者:菊池寛
四年十月六日のことだった。 不幸にも、弟の盛次郎と伯父留二郎は、幸太郎と別れて
関八州を尋ねていた。幸太郎は思った。弟や伯父の三十余年に渡る艱難も、ただこの敵に....
「小田原陣」より 著者:菊池寛
、京都一条の戻橋で梟されて居るのである。 併し此の戦争で一番儲けたのは家康だ。
関八州の新領土がそっくり手に入ったからである。尤も東海の旧領と交換だった。 こ....
「蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
つけた。ところが結ぼれた毛の一かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは
関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一かたまり引ッコ抜いて終....
「箱根熱海バス紀行」より 著者:寺田寅彦
を網膜に写すことによって往路の小発見の満足を蒸し返し完成することを忘れなかった。
関八州が急に狭くなったような気がして帰って来たが、東京駅から駒込までの馴れた道筋....
「私の小売商道」より 著者:相馬愛蔵
の講義を中止せしめたということであります。早雲は、伊豆の一角より身を起して、よく
関八州を領有し、北条氏の基礎を築いた名将であります。 工場主、商店主はもちろん....
「名人地獄」より 著者:国枝史郎
とにした。大前田英五郎、国定忠治、小金井小次郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎、赤尾林蔵、
関八州の博徒手合いで、彼に恩顧を蒙らないものは、一人もないといってもよい。ある時....
「剣侠」より 著者:国枝史郎
つも埋め代えたということじゃ。……治承四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原に
関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
たとき、石垣山の頂上へ家康を案内して眼下に霞む関東平野を指し、 「小田原平定後は
関八州をあなたに進ぜるが、あなたは居城をどこに定めるお考えか」 「北条氏同様、ま....
「明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
の疑念をいだくのが一般観客の心理状態であったらしい。 歌舞伎座の狂言は近松の「
関八州繋馬」を桜痴居士が改作した「相馬平氏二代譚」を一番目に据えて、そのほかに「....
「道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
で非望を懐いたものとしては、通例平将門が例示せられるのであるが、彼は乱世に乗じて
関八州に割拠し、独立を企てただけで、日本国の天子たらんとするのではなかった。しか....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
と、江戸浅草に弾左衛門という者がありまして、鎌倉時代以来の穢多の頭として、これが
関八州の穢多を統率し、その支配の下に、すべての非人等がおりました。彼らの主張する....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
徳川時代のエタは江戸と京都とを両中心としていた。江戸では有名なる弾左衛門が、
関八州から甲・駿・豆・奥の十二州(或いは参遠の一部をも)の「エタ頭」として、寛政....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
分よりも一層有力なる者の家人となって、自らその爪牙に任じたものであった。かの一時
関八州を占領して独立をまで企てた平将門の如きも、もとは摂政藤原忠平の家人であった....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
、犯人の首実検をなさしめ、目を以て証明をなさしめる事から起った名かと思われる。「
関八州古戦録」に、敵方の忍びの者を捕えて、後に重ねて敵から紛れ来るものの目明かし....