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陽暦
「陽暦〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
陽暦の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
事の起きたのは八月上旬でありました。 旧暦だからむろんひと月おくれで、現今の太
陽暦に直すと、ほぼ九月の季節にあたりますが、だから暦の上ではすでに初秋ということ....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧い暦をも廃し、万国共通の太
陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠本陣の吉左....
「みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
麦の穂稲穂
村の一年
一
都近い此辺の村では、
陽暦陰暦を折衷して一月|晩れで年中行事をやる。
陽暦正月は村役場の正月、小学校の正....
「ルバイヤート」より 著者:小川亮作
イランの第二王朝ケイアニイ朝を開いた。 62 新春――イランには古くから一種の太
陽暦が行われ、春分の日、すなわち春の彼岸が一年のはじめとなっている。この日は新年....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
あの女官等の裳の裾が海潮に濡れるであろう、というのである。 行幸は、三月六日(
陽暦三月三十一日)から三月二十日(
陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽....
「三筋町界隈」より 著者:斎藤茂吉
、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。 ここに書いた陰暦七月十七日は
陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠ると旧の七月十七....
「月日の話」より 著者:坂口安吾
も知る通りである。 けれども、これは太陰暦でいってのことで、今日通用している太
陽暦からいうと、たぶん、翌年の一月十何日ぐらいに当るのではないかと思う。 今日....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
加し妖術を用いて幕府軍を悩ましたとありますが、彼は一揆の起る直前、一六三七年、太
陽暦の十二月六日に、穴吊しという方法で死刑にされて死んでいます。私の希望的空想的....
「明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
しても自分の年を隠すことは出来ない。わたしは明治五年十月の生まれで、その年の冬に
陽暦に変わったのである。その頃は米の値が非常に廉くて、一|石三円六十何銭であった....
「十九の秋」より 著者:永井荷風
、古来慣用せられた登高《とうこう》の一語で足りている。 その年陰暦九月十三夜が
陽暦のいつの日に当っていたか、わたくしは記憶していない。しかしたまたまこの稿を草....
「チベット旅行記」より 著者:河口慧海
でまぶしたちょうど白和えのようなご馳走もありますので身体は至極健全でありました。
陽暦の八月頃は蕎麦の花盛りで非常に綺麗です。私はその時分に仏間に閉じ籠って夕景ま....
「黒田清隆の方針」より 著者:服部之総
二日、以上明治二年十一月から三年四月にいたる日本鉄道をめぐる英国の勝利の時期は太
陽暦一八六九年十二月下旬から七〇年五月上旬にいたる期間である。 その期間、「ア....
「尊攘戦略史」より 著者:服部之総
ているのだ。 英幕の危機が極度に迫っている時期の六月四日および二一日(ただし太
陽暦)付の文書では、幕府《タイクン》は完全に見切りをつけられ、ミカドの政府を承認....
「ファウスト」より 著者:ゲーテヨハン・ヴォルフガング・フォン
わっていることに慣れていますの。
わたし達の居所に気を附けて御覧なさい。
陰暦も
陽暦も、わたし達が極めるのです。
「国と国との裁判せんと、
塔の前にぞ我等はをる....
「春の大方山」より 著者:木暮理太郎
尾よく之を討取った。子の刻というから翌二十九日の午前というた方が適当であろう。太
陽暦でいえば七月五日から六日に当っている。『吾妻鏡』に拠ると、其日は狩の記事なく....