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「雍州〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

雍州の前後の文節・文章を表示しています。該当する11件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
黄金の枕」より 著者:田中貢太郎
なかった。彼の前途には華やかな着物を着た幸福が見えていた。要するに彼は若かった。雍州城の西門から五里ぐらい北の方へ往った。侘しい夕方であった。道度はその日も朝か....
十二支考」より 著者:南方熊楠
、子の聖権現は馬鹿に鼠を嫌う神と見える。 多い神仏の内には豪気な奴もありて、『雍州府志《ようしゅうふし》』に京の勝仙院住僧玄秀の時、不動尊の像の左の膝《ひざ》....
加利福尼亜の宝島」より 著者:国枝史郎
喜び、一人は慍る色あり。ここにおいて喜ぶ者を捕らう。はたして賊也」 「魏の李恵、雍州に刺史たり、薪を負う者と塩を負う者とあり。同じく担を弛めて樹蔭に憩う。まさに....
サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
りの職人のみでなく、かつては浄人(塵袋)をも、河原者(※嚢抄)をも、青屋(三好記雍州府志)をも、エタの名を以て呼んでいた事は、「エタと皮多」(三巻六号)の条下に....
三国志」より 著者:吉川英治
て、魏へ進攻する策を企てた。 それの実現を見たのは、延※十年の秋である。維は、雍州へ攻め入った。 魏の郭淮、陳泰などが、この防戦に当り、各地で激烈な戦闘を展....
特殊部落と細民部落・密集部落」より 著者:喜田貞吉
に慰安少き結果としての彼らの自暴自棄は、一層この傾向を大ならしめたものである。「雍州府志」によって「富めるもの多し」と呼ばれた天部部落の如き、明治四十年に於いて....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
ことに落着した。 このエタの水上というのは、果していかなる意味であろうか。 「雍州府志」にエタの起原を尋ねるものにとって、見のがし難い文句がある。 本。 著....
「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
いずれも直接屠者すなわち「和名抄」に所謂エトリというのではないのである。ことに「雍州府志」によって「穢多の本」だと言われた山城の小島部落や、これに接近した舁揚部....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
した例の頼朝公のお墨付には、確かにそれに当てはまるべき名目がない。役者の方では「雍州府志」を証拠として、芝居なるものは八十年ばかり前に、京都の四条河原に始まった....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
つき、長々しく研究を連載せられたことがあった。毛坊主ということは、自分はかつて『雍州府志』で見たことがあったほかに、当時なんらの知識をも有せず、したがってそれが....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
京都の悲田院の被収容者たる、いわゆる「非人」のことを、徳川時代天和頃にできた、『雍州府志』という本には、立派に「悲田院の穢多」と書いてあります。その当時には、確....