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「高弟〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

高弟の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
仇討禁止令」より 著者:菊池寛
が、皆の心にすぐ天野新一郎の名が浮んだ。彼は、藩の指南番、小野派一刀流熊野三斎の高弟であるからだ。 「腕前は未熟であるが、拙者はぜひお加え下されい」吉川隼人がい....
茶の本」より 著者:岡倉覚三
接な関係がある。風俗習慣の起源に関するシナの教科書に、客に茶を供するの礼は老子の高弟|関尹(一八)に始まり、函谷関で「老哲人」にまず一|碗の金色の仙薬をささげた....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
わたしもいささかその心得はある。几董を訊かれて、わたしはすぐに答えた。彼は蕪村の高弟で、三代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。 「....
八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
手が出る。 番数次第に取り進んだ。 最後に現われた三人の射手は、印可を受けた高弟で、綿貫紋兵衛、馬谷庄二、そうして石渡三蔵であったが的も金的できわめて小さい....
寄席と芝居と」より 著者:岡本綺堂
河竹新七の作である。三代目の新七は二代目(黙阿弥)に及ばなかったが、さすがはその高弟だけに、師匠の作風をよく学んでいた。 「塩原多助」が大当たりを取ったので、そ....
三甚内」より 著者:国枝史郎
こに甚太郎は十一歳より随従して今年二十二歳、円明流の奥儀悉く伝授を得て実に武蔵が高弟となれり。これによりて活胴を試みたく、窃かに柳原の土手へ出で往来の者を一刀に....
銅銭会事変」より 著者:国枝史郎
れてあった。 当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断で....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
った。で、恐らく地下室は、その時分に造られたものであろう。素行|山鹿甚五右衛門の高弟、望月作兵衛もそこに住み著述をしたということであるが、爾来幾度か住人が変わり....
娘煙術師」より 著者:国枝史郎
そうに、月の光でほの白く見える右の肩を心持ちそびやかすようにしたが、「竹内式部の高弟としまして、信用の誰よりも厚くありました者が、私の女房の父親にあたる吉田武左....
怪異暗闇祭」より 著者:江見水蔭
本六人の敵討に来たことを物語った。 五郎助七三郎は喜んだ。 「や、長沼先生の御高弟、小机先生でございましたか。そういうことならぜひどうかお力添えを願います。お....
奉行と人相学」より 著者:菊池寛
ある山中左膳と知合になった。左膳は当時の大儒|室鳩巣の門下で、代講までするほどの高弟であったが、中途から易学に凝り出し、易、人相、手相などを研究していた。看板こ....
」より 著者:岡本かの子
。佗しそうだな。 ――割合いに楽しいのだ。 ――当時和漢洋の学者、青木昆陽先生の高弟で、天文暦法の実測にかけては、西川正休、武部彦四郎も及ばんという貴公が、どう....
明治演劇年表」より 著者:岡本綺堂
間を八時間と定めらる。 ○十月二十六日、河竹能進、大阪に死す、六十二歳。黙阿弥の高弟にて大阪における著名の狂言作者なり。 ○十一月十二日、八代目市川海老蔵死す、....
黒板は何処から来たのか」より 著者:小倉金之助
こでは学問の性質上、画法幾何学は一躍して非常に重要な科目となり、モンジュ及びその高弟によって、極めて熱心に教授されるに至った。(モンジュは一八〇六年までは教授と....
戦争史大観」より 著者:石原莞爾
あった。外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。 彼が参謀総長として最後....