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「鶴岡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

鶴岡の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
支倉事件」より 著者:甲賀三郎
はすべてゞ前科四犯を重ねているのだった。 初犯は明治三十六年で、山形地方裁判所鶴岡支部で窃盗罪により重禁錮三ヵ月に処せられている。当時彼は二十二歳である。二犯....
艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
きで、その頭を兜として立派に飾りたてたものに、蒔絵師の善吉があった。善吉は羽前の鶴岡に住んでいた人で、明治の初年頃までまだ生きながらえていた。 「俺の家に来て見....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
いると、午の刻になって俄かに大地震となり、海嘯が起った。倒壊した主なものは政庁、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺であったが、建長寺からは火が起った。その時の死者は二万三....
霊界通信 小桜姫物語」より 著者:浅野和三郎
ここからさして遠くもない、とある山中に住んで居たのじゃ。然るにある年八幡宮がこの鶴岡に勧請されるにつけ、その神木として、俺が数ある銀杏の中から選び出され、ここに....
山の湯雑記」より 著者:折口信夫
て居て、懐しい感じのするのは、何と言っても、信夫の高湯だろう。だが、米沢・新庄・鶴岡などの駅々で見た、宣伝びらでは、今年は信夫の湯に力を入れて評判を立てたようだ....
丹下左膳」より 著者:林不忘
て、なんとなく、つねとは違ったけしきだ。 それもそのはず。 八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門《つるおかいちろうえもん》方《かた》のおもてには、抱《だ》き榊《さ....
鬼火を追う武士」より 著者:田中貢太郎
鶴岡城下の話であるが、某深更に一人の武士が田圃路を通っていると、焔のない火玉がふ....
葬式の行列」より 著者:田中貢太郎
鶴岡の城下に大場宇兵衛という武士があった。其の大場は同儕の寄合があったので、それ....
田沢稲船」より 著者:長谷川時雨
ものだ。 錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の低....
顎十郎捕物帳」より 著者:久生十蘭
ほう、なにをやった」 「神田左衛門橋の酒井さまのお金蔵から四日ほど前、出羽の庄内鶴岡《しょうないつるおか》から馬つきで届いた七万六千両、そのままそっくり持って行....
姫柚子の讃」より 著者:佐藤垢石
し、酒田に釣りが盛んになったのは、今はじまってのことではない。遠く幕末の頃から、鶴岡の酒井藩の風を学んで町民が競って竿を担ぐようになったのであるという。まことに....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
弟子となったが、美術学校へ入学、卒業後一家を為している。 斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻を学び後美術学校鋳金科へ入学し、優等で卒業し後朝鮮李王....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
めた。すでに述べた文覚江の島参籠と、時政願成就院の建立のほかに、六月二十八日には鶴岡放生会を引き上げて泰衡征伐の祈祷をなし、二十九日には愛染明王の像を武蔵の慈光....
春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
。合の手のコバエテとは「来れは良い」の義で、酒田地方の方言だという。同じ庄内でも鶴岡ではこれをコバイチャというそうな。 晩餐の席上で、同席の諸君からいろいろ有....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
ヨメ等が一体にエタと呼ばれる様になったのは、鎌倉時代以来の事であった。大永三年に鶴岡八幡宮の別当法眼良能から、山ノ内・藤沢の長吏に与えた文書にも、「八幡宮掃除。....