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「鹵〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

鹵の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「いき」の構造」より 著者:九鬼周造
」「身の程《ほど》を知れ」の「五字七字」を秘伝とまで考えたから、家臣の美服を戒め簿《ろぼ》の倹素を命じた。そこに趣味の相違が現われている。すなわち、派手、地味....
十二支考」より 著者:南方熊楠
し※廩《きりん》百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて簿《ろぼ》中の槍を取り、諸《これ》を使者に示して曰く、これ父清正常に把《と》る....
陸判」より 著者:田中貢太郎
岳華山の神を祭りに往ったが、華陰にかかると、輿に乗って羽傘をさしかけて往く一行が簿に衝っかかってきた。不思議に思うて車の中をよく見ると、それは父の朱であった。....
渋江抽斎」より 著者:森鴎外
、父に「武鑑」を貰って翫んだということを聞いた。それは出雲寺板の「大名武鑑」で、簿の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が....
私たちの建設」より 著者:宮本百合子
とは疑いない。 ヨーロッパ中世における婦人は、飾りない言葉でいえば男子の闘争の獲品《ろかくひん》として存在したのであった。それは武力的な闘争の賭物とされたば....
旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
おわだ》は、祖母に金のことで助けられていたので、その日も私たち子供に、最大公式の簿《ろぼ》を拝観させようと心配してくれた。 うなぎやの親方は、私の父に揚板《....
俳人蕪村」より 著者:正岡子規
しならん。これ主観的美の行われたるゆえんなり。かつその客観を写すところきわめて麁《そろ》にして精細ならず。例えば絵画の輪郭ばかりを描きて全部は観《み》る者の想....
三国志」より 著者:吉川英治
何人の軍ぞ」 帝をはじめ、茫然、疑い怖れているばかりだったが、時に袁紹あって、簿の前へ馬をすすめ、 「それへ来るは、何者の軍隊か。帝いま、皇城に還り給う。道....
三国志」より 著者:吉川英治
潰滅した曹操の輜重隊が、諸所に、莫大な粮米や軍需品を置き捨ててある。 「そうだ、獲品は、みなこっちの隊へ運んでこい」 後方に退がると、諸隊は争ってこんどは兵....
三国志」より 著者:吉川英治
皆、船に移して奪いきたれ。また諸所の道にかかる落人どもの馬具、物具なども余すなく獲せよ」と、いいつける。 また、劉※に向っては、 「武昌は、緊要の地、君かな....
三国志」より 著者:吉川英治
はさんざんに混乱して逃げくずれた。面白いほどな大快勝だ。途中、莫大な兵糧や兵器を獲しつつ、ついに※城の下まで追いつめて行った。 潰走した蜀兵はみな城中にかく....
三国志」より 著者:吉川英治
上に及んだであろうといわれ、航行不能になって捨てていった船や兵糧や武具など、呉の獲は莫大な数字にのぼり、わけても大捷の快を叫ばせたものは、 「魏の名将|張遼も....
三国志」より 著者:吉川英治
く不利な戦態に入り、ついに三方とも引き退くのやむなきに至った。 陸遜は、多大な獲品と、数万にのぼる降人をひきつれて、建業へ還った。孫権は自身宮門まで出て、 ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
んだ程だった。もちろん、供奉の公卿百官から滝口(近衛兵)の甲冑まで、洩るるはなき簿であったが、俊基朝臣だけは、天皇のお還幸を仰いだ後も、あとの残務にとどまるも....
私本太平記」より 著者:吉川英治
の行幸を仰いだ日は、東大興福の二大寺を挙げ、盛儀三日三夜のご歓待は申すもおろか、簿の還幸には、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝の古えもかくやと、みな申し囃した....