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「黌〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

黌の前後の文節・文章を表示しています。該当する10件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
安井夫人」より 著者:森鴎外
その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀※庵《こがとうあん》の門下に籍をおいて、昌平《しょうへいこう》に入った。後世の註疏《ちゅうそ》によらずに、ただちに経義を窮....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
塩谷宕陰、松崎慊堂にも知られ、安井息軒とも交わりがあって、しばらく御茶の水の昌平に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前に郷里の方へ帰って行ったといううわさだ....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
りでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩明倫堂の学則が改正せられてからは、『靖献遺言』のような勤王を鼓吹する書物が大い....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩明倫堂に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したこ....
渋江抽斎」より 著者:森鴎外
れは五百の兄栄次郎の身の上である。 栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋いで昌平に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの....
田沢稲船」より 著者:長谷川時雨
ど、茗渓《めいけい》は幽邃《ゆうすい》の地だった。 徳川幕府の士人の大学、昌平《しょうへいこう》聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校の塀《へい》は見える....
備前天一坊」より 著者:江見水蔭
常に文武の教に励み、熊沢蕃山その他を顧問にして、藩政の改革に努め、淫祠を毀ち、学を設け、領内にて遊女稼業まかりならぬ。芝居興行禁制とまで、堅く出ていた人格者。....
鴎外の思い出」より 著者:小金井喜美子
治初年になって、前に述べた西周氏が洋行から帰って、西三筋町に住われた頃、沼津に軍が出来るからとのことでその主務教頭となるように勧められて承諾しました。その時順....
向嶋」より 著者:永井荷風
っていると言ったものは恐らく松崎慊堂《まつざきこうどう》のみであろう。慊堂は昌平《しょうへいこう》の教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはこ....
随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
そうである。 明治から大正頃の野田家の当主は、野田|鋤雲といって、井芹経平氏を長とする熊本の済々の剣道と図画の先生をしていて、N氏や同氏の友人たちの仲間に....