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お玉ヶ池
「お玉ヶ池〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
お玉ヶ池の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
方が江戸よりも早く植疱瘡を始めることになりました。江戸では安政六年の九月、神田の
お玉ヶ池(松枝町《まつえちょう》)に種痘所というものが官許の看板をかけました。そ....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
です。そこで、妹のおたかは兄のかたき討ちを思い立って、女ひとりで江戸へ出て、かの
お玉ヶ池の千葉周作の家《うち》へ下女奉公に住み込んで、奉公のあいだに剣術の修行を....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
も何もあったものじゃありません。そう、そう、その金魚ではこんな話がありましたよ」
お玉ヶ池の伝説はむかしから有名であるが、その旧跡は定かでない。地名としては神田|....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
っておりませんから、何処でも塵埃のためには困らされました(その頃、タシカ、神田の
お玉ヶ池の佐羽という唐物屋がたった一軒硝子戸を入れていたもので、なかなか評判であ....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
が、件《くだん》の武士たるものは、では近いうちぜひ遊びに来給え、住所姓名は、神田
お玉ヶ池のなにがしとたずねてみろと教えてくれました。 二十四 ....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
ものだ…… 誰も知っている通り、当時、江戸の町には三大剣客の道場があった。神田
お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作、高橋|蜊河岸《あさりがし》の鏡心明智流の桃井春蔵《....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
歳にして宮本武蔵に預けられた甚内は、その時から武蔵に従って江戸に下り、武蔵が神田
お玉ヶ池の近傍に道場を開いた時(武蔵が
お玉ヶ池へ道場を開いたことがあるかどうか考....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
神田佐久間町のお琴のお師匠さんの家と聞きました。あれが神田川を乗越して東神田から
お玉ヶ池、東は両国矢の倉辺まで、西は今川橋から石町《こくちょう》、本町、室町まで....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
ちも呆《あき》れた。だが、当然驚かなければならない医者が平然としていた。 父は
お玉ヶ池の千葉について剣を学び、初期の自由党に参加した血の気が、まだおさまらなか....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
がつけたのだと。 だが、父の若い血は算盤《そろばん》をはじくまで辛棒しかねて、
お玉ヶ池の先生千葉氏の門下になって、先生には可愛がられたが、親や近所から鼻っつまみになった。....
「三甚内」より 著者:国枝史郎
の家に止宿る。祖父の頼みにより甚太郎を弟子とし、その後武蔵武州江戸に下向し、神田
お玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南もっぱらなり。ここに甚太郎は十一歳より随従して....
「名人地獄」より 著者:国枝史郎
利又七郎に懇望され、浅利家の養子となったほどであった。後故あって離縁となり、神田
お玉ヶ池に道場を開き、一派を創始して北辰一刀流ととなえ、一生の間取り立てた門弟、....
「淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
変梃な秘史である。) 椿岳は諸芸に通じ、蹴鞠の免状までも取った多芸者であった。
お玉ヶ池に住んでいた頃、或人が不斗尋ねると、都々逸端唄から甚句カッポレのチリカラ....