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万治
「万治〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
万治の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
まま伝えたたんざく流し――俗にたなばた流しと称する催しでした。もっとも、こののち
万治元年に至りまして花火がくふうされ、さらに享保十八年に至りまして、今もなお盛大....
「河明り」より 著者:岡本かの子
おずおずとは云い出すのだが、云い出した以上、もう執拗く主張して訊き入れなかった。
万治の頃、伊達家が更に深く掘り下げて舟を通すようになったので、仙台堀とも云ってい....
「法窓夜話」より 著者:穂積陳重
火の際に、当時の有名なる典獄|石出帯刀《いしでたてわき》が囚人を解放した事実は、
万治四年出版の「むさしあぶみ」に次のように見えている。 爰《ここ》に籠屋《ろう....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
《やか》ましい父子血合せの法くらいは西人に先鞭を付けられずに済むだろう。たとえば
万治二年中川喜雲著『私可多咄《しかたはなし》』五に『棠陰比事』を引いて、呉の張挙....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
あった。由比正雪の隠謀の露われたのは、それから中一年を置いた四年の七月であった。
万治二年二月には、岩代、下野、武蔵に大きな地震があった。寛文年間も大きな地震の多....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
多かったものと見える。
それでも儀式としてはまだ相当に残されていたものと見え、
万治三年の正月に、家中水あびせがあった時に、侍たちが光友の世嗣《よつぎ》綱誠に向....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
、冷笑が思わず鼻の先へ出るのがこの男の癖です。 神尾の家柄は三千石でした。 「
万治三庚子十二月卒百五歳――ふーむ」 四十一石の高は軽きに過ぎるが、百五歳は多....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
の者まで行平鍋《ゆきひらなべ》を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、
万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年|菅専助....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
居ねむりをしながら、手習や珠算の練習をやる。尤《もっと》も、大門通りは名のごとく
万治の昔、新吉原へ廓《くるわ》が移《ひ》けない前の、遊女町への道筋の名であるゆえ....
「寄席と芝居と」より 著者:岡本綺堂
一年二月には同座で「真景累ヶ淵」を上演した。いずれも座付作者の新作で、作者は竹柴
万治であったように記憶している。前者は一種の怪談物で、柳川重信(菊五郎)重信の妻....
「備前天一坊」より 著者:江見水蔭
編入しているのは、素より取るに足らぬけれど、それよりもズッと前、七十余年も遡って
万治三年の頃に備前の太守|池田新太郎少将光政の落胤と名乗って、岡山の城下へ乗込ん....
「和算の社会的・芸術的特性について」より 著者:三上義夫
勝ちであったという大きな弱点を暴露しているのである。 『算法闕疑抄』は礒村吉徳が
万治三年(一六六〇)に著わすところ、巻末に一百の新問題を提出したが、この諸問の中....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
今の北海道|胆振地方と見らるべき地域に、「是より東方日の本と云」と記入してある。
万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて日下に流されたとある。「日下....
「間人考」より 著者:喜田貞吉
道せられた(同誌五巻三号)。同君の紹介せられたところによると、同国の間人には既に
万治の頃に田地を有するものの存在した事が明らかである。
万治元年十月三日附の名西郡....
「武鑑譜」より 著者:服部之総
ほんばし》南一丁目の上記須原屋茂兵衛は有名だが、横山町一丁目の出雲《いずも》寺|
万治郎《まんじろう》以下この道の老舗《しにせ》がある。 ところで、さきに幕末か....