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二条城
「二条城〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
二条城の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
心には何物も残っていなかった。 越えて翌月の五日に城攻めに加わった諸侯が、京の
二条城に群参した時に、家康は忠直卿の手を取りながら、 「御身が父、秀康世にありし....
「山崎合戦」より 著者:菊池寛
出来ない筈はないのである。 光秀の本能寺襲撃は、物の見事に成功した。信忠まで、
二条城で父に殉じた。太田錦城と云う漢学者は慷慨の士だが、信忠がこんなときに逃げな....
「鳥羽伏見の戦」より 著者:菊池寛
建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を
二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏問に及んだのである。 いずくんぞ知....
「大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
。 四月四日には、家康、子義直の婚儀に列する為と云う口実で駿府を出発、十八日、
二条城に入っている。 塙直之戦死 大阪方でも、戦備に忙しく、新規....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
の厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護られながら
二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍|家光の時代まで怠らなかったという入朝....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
心から願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、
二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都
二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
まだ上らぬのじゃ」 「暗殺が流行《はや》るそうだな」 六 壬生《みぶ》の村から
二条城まで、わざと淋しいところを選んで、通りを東に町を縫《ぬ》い、あてもなく辿《....
「鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
もお供をして京都へ行き、最前の寺町の寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子は直に
二条城に登城され、新将軍慶喜公に謁見して右の事件を言上せられた。間もなく老中から....
「ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格」より 著者:坂口安吾
茶坊主が刀を抜いて戦いまして、本能寺が落城いたしますと、今度は信長の子供の信忠の
二条城に行って、明智勢を向うにまわして、戦いました。明智勢は彼の刀をもぎとり、投....
「大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都
二条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢した。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の....
「澪標」より 著者:外村繁
既に池には水もなく、埃っぽい小庭園に過ぎなかったが、私の好む休みの場所となった。
二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であった。散歩の途次、私....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
六とも)というのが、百九石余かの高取りで、穢多頭として多くの皮田部落民を率いて、
二条城の掃除をする役でありましたが、宝永五年に文六が死んであとが嗣がず、各部落は....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
類苑」引)にも、 (これまた悲田院の部類、刑罰の時紙籏に罪状姓名を筆とる者)毎日
二条城外の塵穢を掃除するも、中世よりの風歟。 とある。のぼりは「幟」で、罪状を....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
た事で、徳川時代正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、
二条城の掃除や、牢番、首斬り、磔などの監獄事務を掌っていたので知られるが、その青....