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伯耆
「伯耆〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
伯耆の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
い》を商《あきな》っている河内屋十兵衛の店へ、本郷森川|宿《じゅく》の旗本稲川|
伯耆《ほうき》の屋敷から使が来た。稲川は千五百石の大身《たいしん》で、その用人の....
「仇討三態」より 著者:菊池寛
の翌日である。 その二 越後国|蒲原郡新発田の城主、溝口|
伯耆守の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに、親の敵....
「思い出の記」より 著者:小泉節子
も心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
伯耆の下市に泊って、その夜盆踊を見て大層面白かったと云いますから、米子から船で中....
「青蛙堂鬼談」より 著者:岡本綺堂
を妻にしていた関係上、舅の家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、
伯耆の国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿と....
「単独行」より 著者:加藤文太郎
いたのは十一時でした。頂上は木が少ないので、眺望はとても雄大です。ただ春霞のため
伯耆の大山が見えなかったのは残念でした。扇ノ山を下ってすぐ北の山へ登ります。この....
「碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
て大友修理大夫|義鎮の三万騎を九州|多々良浜に七度まで打破った時に、この宗茂の父
伯耆守、僅か二三千騎をもって働き、ついに大友の勝利に導いた事がある。その武将の子....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
内裏から、東寺の門まで絡繹として続いたとある。供奉の武将達も、或は河内に、或は|
伯耆に、北条氏討滅の為にあらゆる苦悩を味った訳であるから、此の日の主上及び諸将の....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
、角ある蛇だと云うではないか。あの常陸の夜叉大神は、男の陽物だというではないか。
伯耆美作では大猿を祭り、河内では河伯を崇めると云う。これらの迷信は捨てなければな....
「正雪の遺書」より 著者:国枝史郎
向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻を過ぎた頃であった。 染帷に鞣革の襷、
伯耆安綱の大刀を帯び、天九郎勝長の槍を執って、忠弥はひとしきり防いだが、不意を襲....
「光り合ういのち」より 著者:倉田百三
とのなつかしい思い出の残るのは西城川だ。これは中国一の大河郷ノ川の上流にあたり、
伯耆境から源を発して、北備後をめぐり流れている。私は八、九歳ころから川遊びを覚え....
「小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
立ってその行きさきを評議した。侍従はともかくも難波津へ逃げ下ろうと言った。采女は
伯耆の大山の霊験者のもとへひとまず落ち着こうと言った。その意見がなかなか一致しな....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
を、武家その濫吹を鎮護せんために、安藤太というものを蝦夷管領とすともある。異本『
伯耆巻』にも、「奥州津軽の住人安東又太郎季長云々、此の安東と云は義時が代に夷島の....
「オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
国の神たる四天王が貞観年間山陰諸国に祭られた中に、ゴコクという名称から誤られて、
伯耆の社村では今日五穀豊熟を護るの神として崇められているがごとき極端なものもある....
「古事記」より 著者:太安万侶
澤女《なきさわめ》の神です。このお隱れになつたイザナミの命は出雲《いずも》の國と
伯耆《ほうき》の國との境にある比婆《ひば》の山にお葬り申し上げました。 ここに....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
大字幾地字算所縄手(「山荘太夫考」) 但馬 朝来郡与布土村大字迫間字産所(同上)
伯耆 東伯郡に一ヶ所、西伯郡に一ヶ所、今もありと、これは倉光清六君の報告(本誌四....