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元弘
「元弘〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
元弘の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「武蔵野」より 著者:国木田独歩
がある。そしてその地図に入間郡「小手指原《こてさしはら》久米川は古戦場なり太平記
元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
の戦いを説くには、どうしても建武中興が、如何にして崩壊したかを説かねばならない。
元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠....
「菊模様皿山奇談」より 著者:三遊亭円朝
けました。此の皿山は人皇九十六代|後醍醐天皇、北條九代の執権相摸守高時の為めに、
元弘二年三月|隠岐国へ謫せられ給いし時、美作の国久米の皿山にて御製がありました「....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
半蔵さん、御覧なさい。ここに三浦|兵衛尉義勝とありますよ。この人は従五位|下だ。
元弘二年|新田義貞を輔けて、鎌倉を攻め、北条高時の一族を滅ぼす、先世の讐を復すと....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
おぼつかない。きっと薩摩と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、
元弘、建武の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、わ....
「三人の相馬大作」より 著者:直木三十五
きることになった。人は、この戦を思うと、楠氏の志は必ず、思出す。即ち、正成の志は
元弘、建武の御代を救うにあっただけでは無く、万代、人の道を教えるのにあったのだ」....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
火花を散らして合戦をしたそのあとだ、陣街道の首塚と胴塚、それに三千人というのは、
元弘より永享にかけて討死した三千人を葬ったところだから、今でもその魂魄《こんぱく....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
山城、近江の二箇国に強震があって、日吉八王子の神体が墜ち、竹生島が崩れた。そして
元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
とであり、江北殿はその京極屋形のあったところだという。京極氏は江北六郡の領主で、
元弘建武以来の錚々《そうそう》たる大名であり、山陰の尼子氏の如きもその分家に過ぎ....
「武蔵野」より 著者:山田美妙
方が世に秀れておじゃるから……」 「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を
元弘の昔に復したや」 「それは言わんでものこと。いかばかりぞその時の嬉しさは」 ....
「剣侠」より 著者:国枝史郎
雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、
元弘三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
その図案を参酌して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、
元弘三年四月、足利尊氏が赤松の兵を合せて大いに六波羅を破ったので、後醍醐天皇は隠....
「赤坂城の謀略」より 著者:国枝史郎
正成が河内摂津の間に、隠顕出没して再挙を計るべく、赤坂の城をこうして開いたのは、
元弘元年十月の、二十一日のことであった。 が、約半年の月日が経って、翌年の四月....
「小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
争いは一日も絶えなかったが、北朝の明徳三年に南北朝の和議がはじめて整った。これで
元弘建武以来六十余年の兵乱もようやく鎮まるかと思うと、遠い九州には菊池の一族がふ....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
へ流された。六十三歳である。その後は都から影を絶ってしまって、消息は不明である。
元弘二年、後醍醐天皇の隠岐遷幸の年、七十九歳をもって世を去った。忠兼・為仲などい....