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叡
「叡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
叡の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「富士」より 著者:岡本かの子
る。 翁はその多くのこどもを西国の名だたる山に、ほぼ間配《まくば》りつけた。比
叡、愛宕、葛城、鈴鹿、大江山――当時はその名さえ無かったのだが、便利のため後世の....
「東海道五十三次」より 著者:岡本かの子
線をうけて鉢の金魚は鱗を七彩に閃めかしながら泳いでいる。外を覗いてみると比良も比
叡も遠く雪雲を冠っている。 「この次は大津、次は京都で、作楽井に言わせると、もう....
「生まれいずる悩み」より 著者:有島武郎
経や過量な人為的知見にわずらわされず、強健な意力と、強靱な感情と、自然に哺まれた
叡智とをもって自然を端的に見る事のできる君のような土の子が――芸術の捧誓者となっ....
「最終戦争論」より 著者:石原莞爾
普通の仏教の力はもうなくなってしまうと、お釈迦様が予言しています。末法に入ると、
叡山の坊さんは、ねじり鉢巻で山を降りて来て三井寺を焼打ちにし、遂には山王様のお神....
「振動魔」より 著者:海野十三
付かないように、極めて自然にことをはこばなければならないのだった。それは、いかに
叡智にたけた彼にとっても、容易なことで解決できる謎ではなかった。 だが幸運なる....
「空襲葬送曲」より 著者:海野十三
て、刻々に敵艦隊の右側を覘って突き進んだ。 その背後には、摩耶、霧島、榛名、比
叡が竜城、鳳翔の両航空母艦を従え、これまた全速力で押し出し、その両側には、帝国海....
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東
叡山寛永寺のかねがよく入っていた。 昭和二十二年 一月一日(曇) ◯五十一歳。....
「茶の本」より 著者:岡倉覚三
当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧|最澄茶の種を携え帰って
叡山にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族|僧侶の愛好飲料となったのはい....
「家庭愛増進術」より 著者:岡本かの子
許さない事になり、また本当に自分の親愛なものの心を停滞させ腐敗させ無い為のやはり
叡明な愛の作業だと思います。時には怒りも憎みもします。しかしそれは私情の憎みや怒....
「小夜啼鳥」より 著者:アンデルセンハンス・クリスチャン
かし、わたしがこの鳥のことをよんだ本というのは、」と、皇帝はおっしゃいました。「
叡聖文武なる日本皇帝よりおくられたもので、それにうそいつわりの書いてあろうはずは....
「取返し物語」より 著者:岡本かの子
前がき いつぞやだいぶ前に、比
叡の山登りして阪本へ下り、琵琶湖の岸を彼方此方見めぐるうち、両願寺と言ったか長等....
「画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
ました。初音と題しました。次は大正七年文展会場で、藤原時代の紅葉狩の風俗を描き、
叡覧に供しました。御前揮毫は、いずれも御前で短時間で描きますので、即興的に、色も....
「明治哲学界の回顧」より 著者:井上哲次郎
則的状態がすなわちロゴスと名づけられてきたもので、これの世界的経営の上から見れば
叡智ともいうべく、これを目的行動という方面からいえば Sollen ともいうべく....
「古事記」より 著者:太安万侶
ます。次にオホヤマクヒの神、またの名はスヱノオホヌシの神です。これは近江の國の比
叡山《ひえいざん》においでになり、またカヅノの松の尾においでになる鏑矢《かぶらや....
「六日月」より 著者:岩本素白
朝早く一乗寺村を歩いて、それから秋晴の八瀬大原、帰りに鞍馬へ登って山端の駅まで戻って来ると、折から小春日の夕日を受けた
叡山が、ぽか/\と如何にも暖かそうな色をして居るので、つい誘われて再び八瀬へ取っ....