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古え
「古え〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
古えの前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「縁結び」より 著者:泉鏡花
のう、いかにかと云いながら、やがて後にぞ靠りける、南無妙。 白玉か何ぞと問いし
古えも、かくやと思知れつつ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂な....
「不吉の音と学士会院の鐘」より 著者:岩村透
官立美術学校の附近に或る下宿屋がなる。一体の出来が面白い都会で、巴里に遊んでその
古えを忍ぶとき、今も猶お悵恨の腸を傷めずにはいられぬものあるが、この附近には古画....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
した詩を培いつつあった温床であるからにほかならなかった。『千載集』が『古今集』の
古えを復活させたということには、以上のように考えることのできる時代的必然が、その....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
著者黒川道祐が何に拠ってこの言をなしたかは今これを知る事が出来ぬが、天和・貞享の
古えに於いて、彼がかく判然たる記事をなすべく、確かな伝説のあったものと解せねばな....
「エタと非人と普通人」より 著者:喜田貞吉
隔が設けられていた。しかしその中間に非人というものを置いて、さらにその所謂非人の
古えを考えてみたならば、その間何ら区別のないものたる事は、容易に理会せらるべきも....
「エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
れた賤者も、時を得ては武士となって高く社会を睥睨する様になった世の中のこととて、
古え「大みたから」と呼ばれた農民までが、一様に賤者として見下されていたのである。....
「火葬と大蔵」より 著者:喜田貞吉
信ずる。よしや火葬という事が道照によって始まったとしても、屍を焼くという事は遠い
古えから我が国に行われていたのであったとの事を。 我が国では屍体を鄭重に扱って....
「くぐつ名義考」より 著者:喜田貞吉
或いは本居翁の言われた様に、蝦蟆がその鳴き声からククの名を得ていたかもしれぬが、
古えの文筆者がタニグクの名を記述するに当って、必ずしもこれを蝦蟆の種類のものだと....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
れを同じ越後について見るに、魚沼郡に接して古志郡の名がある。古志はすなわち越で、
古えの越人の名の保存せられたもの。越人は近くまで千島アイヌがクシと呼ばれたと同じ....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
開き給うた最初のものと見るべく、それが同じ「倭」の名を以て表わされていても、勿論
古えの九州地方なる倭人国のことではなかった。しかるに支那人はその前後に区別あるこ....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
あって、飼鶏漁魚者にまでも、親近することが禁ぜられたのである。したがって彼らは、
古えは仏者の済度の手から漏れて、その妙味を味わうことなく、太古以来の祖先の遺風を....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
役役銀の如きも、普通の百姓の半額を負担させられたものであった。これすなわち身分上
古えにいわゆるハシヒト、ハセツカベに相当するもので、良民と賤民との中間に位置した....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
に起因することのすこぶる多かったのはもちろんであるが、その事実はさらにさらに遠い
古えから存在していたのである。養老元年の紀に、この頃百姓法律に背いて、ほしいまま....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
があるところから、長きを祝する意に用いたものであろう。 今一つ併せ考うべきは、
古え饗宴の給仕人の或る者を「手長」と云った事で今も寺院にはこの称がある。宇治拾遺....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
我が国には
古え天益人の語があって、人口が日々増加しつつあることは、太古以来既に認められてお....