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「右大臣〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

右大臣の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
報恩記」より 著者:芥川竜之介
ます。『さん・ふらんしすこ』の寺の鐘楼《しゅろう》も、焼けと云えば焼いて来ます。右大臣家《うだいじんけ》の姫君も、拐《かどわか》せと云えば拐して来ます。奉行の首....
駈込み訴え」より 著者:太宰治
だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、....
桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
して中島に渡ろうとした。此時若し信長が中島に渡って正面の戦をしたならば、恐らくは右大臣信長の名を天下に知らしめずに終ったことであろう。丁度、その時、梁田政綱が放....
賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
定を開いた。これが有名な清洲会議である。 この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣|惟任日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子|三位中将信忠も亦....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって陶冶する事、左右大臣中の一人は必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収め....
十五年間」より 著者:太宰治
て発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣|実朝」という三百枚の小説を発表したら、「右大臣実朝」というふざけ切った読....
鉄面皮」より 著者:太宰治
安心し給え、君の事を書くのではない。このごろ、と言っても去年の秋から「右大臣実朝」という三百枚くらいの見当の小説に取りかかって、ことしの二月の末に、や....
ああ玉杯に花うけて」より 著者:佐藤紅緑
記した一行を読んでびっくりした。 「先生なんですか、これは」 「あとを読め」 「右大臣|師房卿――後一条天皇のときはじめて源朝臣の姓を賜わる」 「へんなものです....
死者の書」より 著者:折口信夫
みて、慄然とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥んで居た南家の横佩右大臣は、さきおととし、太宰員外帥に貶されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹....
万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
ち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行で大伴安麿の兄に当り、高市大卿と....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
マ村のコマ氏とは関係がない。 丹治氏の祖、多治比島は持統四年(西紀六九〇年)に右大臣となり、文武四年(西紀七〇〇年)に左大臣となり、翌年死んだ。この大臣の出現....
反省の文学源氏物語」より 著者:折口信夫
が書かれている。前者が左大臣家――藤原氏を考えていることは勿論である。――後者は右大臣家である。源氏の母の出た家は、豊かではあったが、家柄はそれ程高くはなかった....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
の事実からでも察せられる。嘉応二年五月二十七日、彼は鎮守府将軍に任ぜられた。当時右大臣であった兼実は、その日記『玉葉』にこれを記して、 奥州夷狄秀平、任。乱世....
道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
臣を以て君と為す未だかつてこれあらざるなり」との正論とは矛盾しない。しかし当時の右大臣吉備真備の如きも、称徳天皇崩御の後において、天武天皇の皇孫で、既に臣籍(註....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
ではじめて百首歌を詠じたが、二十一で更に『堀河百首』の題で百首を詠んだ。このとき右大臣|兼実、俊恵、寂蓮、隆信の絶讃を博した。『千載集』には八首採られた。歌はめ....