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「土御門〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

土御門の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
根岸お行の松 因果塚の由来」より 著者:三遊亭円朝
生きているものがなか/\思いもよらぬことで、今を距《さ》ること四百十八年も前で後土御門《ごつちみかど》帝の御代しろしめすころ、足利七代の将軍|義尚《よしひさ》の....
玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
。 采女《うねめ》 一 千枝太郎泰清は柳の雨にぬれて帰った。播磨守泰親の屋敷は土御門《つちみかど》にあって、先祖の安倍晴明以来ここに年久しく住んでいた。 「唯....
大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
遂に秀頼淀君と共に自刃し、治長、速水守久、毛利勝永、大蔵卿等之に殉じた。因に、『土御門泰重卿記』に依れば京の御所では公卿衆が清凉殿の屋根から大阪城の火の手を見物....
若き日の成吉思汗」より 著者:林不忘
下の避難民男女、その他城兵多勢。 時代 蒙古のいわゆる鼠《ね》の年。わが土御門天皇《つちみかどてんのう》の元久元年。 第一幕 第一場 斡児桓《....
十二支考」より 著者:南方熊楠
鼓の賦あり。『包公寄案』には屈鼓とした。冤屈を訴うる義だ。『類聚名物考』二八五に土御門《つちみかど》大臣「君が代は諫めの鼓鳥|狎《な》れて、風さへ枝を鳴らさゞり....
陽炎座」より 著者:泉鏡花
の腹より、人間は痩せていた。 ここに照る月、輝く日は、兀げた金銀の雲に乗った、土御門家一流易道、と真赤に目立った看板の路地から糶出した、そればかり。 空を見....
鍛冶の母」より 著者:田中貢太郎
があって、昔は土佐から阿波に往く街道になっていた。承久の乱後土佐へ遷御せられた後土御門上皇も、この山中で大雪に苦しまれたと云うことが「承久記」の中にも見えている....
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
た町もあると同時に、その焼け跡に普請《ふしん》をして新宅を構うる者も続々あった。土御門内裏のごときも、焼亡の後久しからずして再建になった。将軍の柳営とても同断で....
学生と先哲」より 著者:倉田百三
るすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たち....
雪の宿り」より 著者:神西清
れた折節、兵火の余烟を遁れんものとその近辺の卿相雲客、或いは六条の長講堂、或いは土御門の三宝院へ資財を持運ばれた由が、載せてございますが、いざそれが吾身のことに....
法然行伝」より 著者:中里介山
れた。これが六時礼讃の苦行のはじめである。 後白河法皇の十三年の御遠忌に当って土御門院が御仏事を修せられた。それは元久元年三月のことで、その時法然は蓮華王院で....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
なければならなかったし、また歌界だけで見れば、六条家の末輩は九条家の政敵であった土御門家の家司になって対抗して来たりしたから、狭いなりに歌界にも歌界なみの政争は....
私本太平記」より 著者:吉川英治
て、承久の帝政回復の覆りから、時の北条義時のため、後鳥羽上皇は隠岐ノ島へ、順徳、土御門の二上皇も佐渡や土佐へ流された――宮方敗戦の深刻な悪夢は、百年後の今も深く....
私本太平記」より 著者:吉川英治
事態がそんな感情でいささかも形を変えるものではない。事は急であった。直義は急遽、土御門高倉の兄尊氏の新邸へ逃げこんだ。よもやそこへはと、一時の難を避けるつもりで....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
色」にある。 『閑田耕筆』には、「一種の巫祝祓祈祷方角占卜の事などを業とする者、土御門家支配と標を出せるが洛外に見ゆるを、京都にては名目を失へり。近江にては之を....