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坂上田村麻呂
「坂上田村麻呂〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
坂上田村麻呂の前後の文節・文章を表示しています。該当する6件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「田村将軍」より 著者:楠山正雄
いありません。この京都の町を一目に見晴らす高い山の上のお墓に埋められている人は、
坂上田村麻呂という昔の名高い将軍です。そしてそのなきがらを埋めたお墓を将軍塚とい....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
イナリはこの神社も、ミカ神社も、北向明神もみんな自分の配下で、北向明神というのは
坂上田村麻呂の創建というが、実際は臣下の子孫が何々党をたてて遂に神の子孫を追うに....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
たるものまた少からず。かつて本誌第二十一巻第四号(大正二年四月発行)に掲げたる「
坂上田村麻呂は夷人なりとの説」中に論及せる、近衛員外中将兼播磨守陸奥大国造正四位....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
」なるがためであった。もって当時の形勢を知ることが出来よう。 奥羽の地はかつて
坂上田村麻呂征夷の偉勲により、今の岩手県の北部から青森県の東南部、すなわち爾薩体....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
ける上治郡の大領|伊治公呰麻呂の反の如き、その乱遂に延暦の末にまで及び、ようやく
坂上田村麻呂の征討によって、これを鎮定するをえた程の大事件であったが、しかもその....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
年後、延喜の頃に藤原利仁、すなわち有名なる利仁将軍が、大いに蝦夷を征伐して、昔の
坂上田村麻呂、すなわち田村将軍と相比すべき程の、征夷の勇将として伝えられているの....