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「坪井〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

坪井の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
柿の種」より 著者:寺田寅彦
石本所長と松沢山口両氏ならびに観測所主任の水上氏と四人が浅間に登山したが、自分と坪井氏とは登らなかった。石本松沢山口三氏はその日二時十五分|沓掛発の列車で帰京し....
死までを語る」より 著者:直木三十五
できる。 十四 中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新らしいし、遠....
夏目漱石先生の追憶」より 著者:寺田寅彦
一週に二三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にで....
現代日本の思想対立」より 著者:戸坂潤
業績は十位いはある。故志田順、堀口由己、小倉伸吉、妹沢克惟、和達清夫、松山基範、坪井誠太郎、石本己四雄(地震研究所所長)、日高孝次(海洋気象台長)の諸博士の業績....
幻の彼方」より 著者:豊島与志雄
間もなく産婆が来てくれた。産婆にもよく分らなかった。その紹介で、産科婦人科の坪井医学士に頼むこととした。近所の電話をかりてかけさせると、すぐに行くとの返辞だ....
死の前後」より 著者:豊島与志雄
島村は一度さる料亭で彼女に逢った。なお、一ヶ月ほど後に、蔦子と深い仲になっていた坪井宏の訪問を受け、次いで上海から可なり詳しい手紙を貰った。そして彼等のことが島....
常識」より 著者:豊島与志雄
い戻り、さてこれから如何なる生活を為すべきかと思い迷ってる、一介の不徳なルンペン坪井宏に過ぎなかった。だから、あなたと知りあって、不覊奔放な気分から、ああした間....
怪異に嫌わる」より 著者:豊島与志雄
坪井君は丹波の人である。その丹波の田舎に或る時、伯父の家を訪れたところ、年老いた....
土佐の地名」より 著者:寺田寅彦
と土佐と直接の交渉があったという証拠には決してならない事も明白である。 最近に坪井博士はその著『我が国民国語の曙』において四国の地名についても多少の考証をして....
南国太平記」より 著者:直木三十五
「それは、違う、大きに違う」 四人が、俯向いて、膝へ手を置いた時、襖の外で 「坪井芳州、参上仕りましてございます」 「許す」 吉之助は、斉彬のその声に、顔を....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
、野房義平などいう人はいずれも修業盛りで死んでしまいました。中にも野房君は鑑識家坪井晋氏の世話で十二歳の時に私の家に来て、子飼いともいうべき弟子でありましたが、....
漱石氏と私」より 著者:高浜虚子
安火を抱くや後風土記 追分で引き剥がれたる寒かな 正 当時の寓居は熊本市内坪井町七八とある。 この手紙の初めの方にある紫溟吟社というのは、その頃地方に起....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
にかつて蝦夷が住みたりとの事実を提供して、廻り遠き説明を下すを要せざるに似たり。坪井博士は『考古学雑誌』(第四巻第三号)に「蝦夷考」を発表せられ、 タケル(梟....
白い道」より 著者:徳永直
てみえた。裁判所の赤煉瓦も、避雷針のある県庁や、学校のいらかも、にぶく光っている坪井川の流れも、白い往還をかすかにうごいている馬も人も、そして自分も、母親も、だ....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
が国で人類学、考古学の、やや具体的に研究される様になりましたのは、何と申しても故坪井正五郎先生を以て初めとしなければなりませんが、先生の時代には、石器時代の住民....