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「大儒〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

大儒の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
侏儒の言葉」より 著者:芥川竜之介
別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩《じくじ》として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのであ....
安井夫人」より 著者:森鴎外
が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒《たいじゅそっけん》先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の....
運命」より 著者:幸田露伴
かば、郷人呼んで小韓子となせりという。其の聰慧なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉....
法窓夜話」より 著者:穂積陳重
という規則があって、石出流の応急処分が今日においても是認せられている。 七九大儒の擬律 正徳の頃、武州川越領内駒林村の百姓甚五兵衛とその忰《せがれ》四郎兵....
明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」より 著者:西田幾多郎
ン*1などとなった。こういう外人の教師と共に、まだ島田重礼先生というような漢学の大儒《たいじゅ》がおられた。先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐《おもむ....
十二支考」より 著者:南方熊楠
子珍、父母の勧めにより、定州の辺孝先先生に学ばんとて旅立った。辺先生は漢代高名の大儒で、孔子歿後ただ一人と称せらる。子珍、定州界内に入りて路傍の樹蔭に息《やす》....
鴎外・漱石・藤村など」より 著者:宮本百合子
安井夫人」という鴎外の書いた短い伝記を読む機会があった。ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男....
細木香以」より 著者:森鴎外
あろう。 名僧智識の宗教家王たるべきが如く、小説家王たるべきものもあろう。碩学大儒の哲学者王たるべきが如く、批評家王たるべきものもあろう。出版業者王たるべきも....
涼亭」より 著者:田中貢太郎
若い時は、儒学によって身を立てようと思ったことがあるが、考えてみれば、大官となり大儒となって、一世に名をあげたところで、ほんとうに心から楽しいか楽しくないか判ら....
奉行と人相学」より 著者:菊池寛
えていた。 丁度その頃、彼は旗本の士である山中左膳と知合になった。左膳は当時の大儒|室鳩巣の門下で、代講までするほどの高弟であったが、中途から易学に凝り出し、....
政事と教育と分離すべし」より 著者:福沢諭吉
》を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したりといえども、全国の士人がまったく仏臭を脱して儒教の独立を得るま....
読倫理教科書」より 著者:福沢諭吉
大いに世の信を得たるは、八十の老翁が自身の実験をもって養生の法を説き、誠実温厚の大儒先生にして女徳の要を述べたるがゆえに然るのみ。もしもこの『養生訓』、『女大学....
三国志」より 著者:吉川英治
止め、 「いけません」と、いった。 「盧植は海内の学者です。中郎将としてよりも、大儒として名が知られています。それを董卓が殺したと天下へ聞えることは、あなたの不....
三国志」より 著者:吉川英治
た。――叔母も身寄りもみな殺されて知らない顔の兵ばかりだった。 その頃、潁川の大儒石韜は、諸州を遊歴して荊州にきていた。 由来、荊州襄陽の地には、好学の風が....
三国志」より 著者:吉川英治
、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。大儒の業は、まず志を一国の本におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそえ、味な....